「アリー スター誕生」のガガさん、よかったです。アダム・ドライバーさんの方は「マリッジ・ストーリー」「パターソン」が印象に残っています。その二人の共演なら見なくちゃいけないでしょう。それにアル・パチーノ、ジャレッド・レト、期待が持てます。
俳優のレベルは高いのだが…
んー、どうでしょう…、当然ながら個々の俳優のレベルは高いのですが、アンサンブルというところまではいっていない感じです。事実に基づく物語ですので、俳優たちのアンサンブルで見せるか、あるいは特異な視点で驚かせるしかないわけで、視点という意味では特に目立ったものはなく知られた事実が描かれていくだけです。
まず、パトリツィア(ガガさん)とマウリツィオ(アダム・ドライバー)がうまく噛み合っていません。パトリツィアは一貫して上昇志向の強い人物として描かれています。マウリツィオとの出会いからして、グッチの名前を聞くやいなや目つきが変わります。マウリツィオの方は、弁護士志望でグッチの経営には興味がない人物となっています。そのマウリツィオがパトリツィアの見え見えの猛アタックに簡単に落ちてしまいます。それはそれでいいのですが、もしそういう描き方をするのであれば、マウリツィオはパトリツィアしか見えていない、かなり視野の狭くなった状態になっているはずなんですが、アダム・ドライバーのマウリツィオにはそれが感じられません。マウリツィオに余裕がありすぎです。
パトリツィアが何を欲しがっているのかがうまく描かれていません。金なのか、名声なのか、愛なのか、あるいは他のなにかなのか、それが見えないとただの悪い人物にしかみえません。最後にはマウリツィオを殺すわけですから、それも自らの手ではなく他人の手を使って殺すわけですから、そこにいたる苦しみやら葛藤やらを描いておかないと単なる悪人になってしまい、映画で描くほどの人物ではなくなってしまいます。
知られた事実だけでも驚きですのでそれに頼りすぎているのかもしれません。サラ・ゲイ・フォーデンさんという方のノンフィクション小説をもとにしているそうです。
ネタバレあらすじ
ストーリーはほぼウィキペディアです。
主要な人物は、パトリツィア(レディー・ガガ)、マウリツィオ(アダム・ドライバー)、マウリツィオの父ルドルフォ(ジェレミー・アイアンズ)、マウリツィオの叔父でルドルフォの兄アルド(アル・パチーノ)、アルドの息子パオロ(ジャレッド・レト)の一族5人です。ウィキペディアによればアルドの息子はひとりではないようですが映画ではひとりになっています。
他に秘書(グッチの番頭さん)のドメニコと占い師のピーナという人物がいて、さほど重要人物には見せていないのにもかかわらず、これが終わってみればこのふたりがコトを回していたような結果になっています。おそらく意図したことではないと思われるのにそう見えてしまうのは映画としてよくないということでしょう。
冒頭マウリツィオのシーンがありますが、あれは殺害される前段のシーンだったようです。効果的じゃないですね。続いて、パトリツィアがトラックドライバーたちの間をカツカツカツとおしりを振りながら歩いていきます。ドライバーたちからひゅーひゅーと冷やかしの声がかかります。パトリツィアは父親が経営する運送会社で働いています。
パトリツィアは、あるパーティーでマウリツィオにそれと知らずに出会い、マウリツィオ・グッチと名前を聞くや猛アタックを開始します。そうしたシーンが2、3シーンあり結婚します。しかし、マウリツィオの父ルドルフォの猛反対にあい疎遠になります。マウリツィオはパトリツィアの父の会社で一従業員として働き始めます。
マウリツィオはしがらみのない状態で結構楽しそうに働いていましたが、映画全体からみればかなり浮いたシーンです。映画の方向性にまとまりがないということでしょう。
この時点でグッチの株式はルドルフォとアルドが半々で所持しています。アルドは息子のパオロにはまったく期待しておらず、ルドルフォのもとを離れたマウリツィオに接近します。パトリツィアはそれを敏感に感じ取りアルドと良好な関係を築き、マウリツィオと父ルドルフォの関係修復に成功します。
ルドルフォが亡くなり、マウリツィオはグッチの50%の株式を相続します。ただその株券にはルドルフォのサインがないために相続税がどうのこうのという話があり(これはよくわからない)、映画ははっきりとは言っていませんが、パトリツィアがサインを偽造したようです。
このあたりから、アルドとパオロの存在感が増してきます。そりゃ、アル・パチーノにジャレッド・レトですから、そうならざるを得なかったのでしょう。その意味ではキャスティングの失敗も映画が散漫になった大きな原因でしょう。ガガさんとアダム・ドライバーで通すべき映画だったんだと思います。
パオロの無能さに対してマウリツィオに傾斜するアルドを見透かしたパトリツィアは、パオロをはめて(ここで番頭ドメニコがパトリツィアについていたと思う)脱税の罪で服役させます。さらに、なんとかデザイナーとして世に出たいと思っているパオロをもはめて50%の株式をアラブ資本に売却させようと画策します。
映画はこうした様々な策略を一体誰が仕組んでいるのかをはっきりさせていません。パトリツィアがマウリツィオを仕向けているふうにはみえますが、それも決定的ではありませんし、時にマウリツィオが自分の意志で動いているような感じのシーンもあります。これもこの映画が散漫になっているひとつの原因でしょう。
突然、マウリツィオが警察の捜査を受けます。マウリツィオはサンモリッツに逃亡します。これもよくわからない展開なんですが、どうやら番頭ドメニコがパトリツィアがしたらしい株券のサイン偽造を当局に売ったようです。
このあたりから、何が決定的であったのか描かれないままに、マウリツィオはパトリツィアから離れて他の女性と暮らし始めます。まるでパトリツィアのマウリツィオへの殺意が嫉妬であるかのようにです。そう言えば書いていませんが、かなり早い段階からパトリツィアはピーナという占い師に自分の将来を占ってもらっています。これも、あくまでも将来を占ってもらっているシーンだけで、どう行動すればいいかを頼るような関係には描かれていません。
なのに、パトリツィアはこのピーナにマウリツィオの殺害を依頼します。そして、マウリツィオは殺害されます。
あとはおまけのように、返り咲いたパトリツィアのワンシーンと、そして犯罪が発覚し裁判で懲役29年の判決がおり、現在のグッチには一族は誰もいないとスーパーが入り終わります。
「ゴッドファーザー」にできなかったリドリー・スコット監督
おそらく制作意図はグッチ一族の愛憎を描くことだったんだと思います。
残念ながら、事実にとらわれすぎたのか、映画はそうはなっておらず、単なる事実らしきものの説明に終わっています。
いろいろ原因はあると思います。途中にも書いてきましたが、一番はキャスティングの面で軸を作れなかったことではないかと思います。ガガさんなのか、アダム・ドライバーなのか、アル・パチーノなのか、ということです。
そしてもうひとつは、読む方法もありませんので適当な話ではありますが、シナリオがよくないのでしょう。事実を追い過ぎています。キャスティングにも関わりますが、映画の軸となる人物がコトを動かしていく物語じゃないとこういう映画は散漫になります。
余計なことですが、人物間の心理戦で描く方法もあったように思います。