音楽とエスプリの効いた会話でみせるアニメーション
ふと見た予告編に惹きつけられたアニメーション、本編81分も惹きつけられっぱなしでした。
今年2019年のカンヌ国際映画祭批評家週間でグランプリを受賞したらしく、また、この部門でアニメーションがグランプリを受賞したのは初めてとのことです。
切断された手が自分の体を求めてさまようという物語です。
ご覧になっていない方はまずは予告編を、まず間違いなく見たくなると思います。
音楽が不穏さや切迫感を煽り、これは見に行かなくっちゃって感じしません?
で、上映館をみてみれば、またもNetflix! ただ、配信の前に一週間だけ劇場で先行公開されています。それはありがたいのですが、劇場が遠~いんですよ。いよいよ映画も家庭で見る時代に入ったんでしょうか。
邦題は「失くした体」と体言止めになっていますので焦点がぼけてしまいますが、原題は「J’ai perdu mon corps」 、英題は「I Lost My Body」というように、「手」を失くした体ではなく、体を失った「手」が主体の物語です。
これ、結構重要なことで、その点では、この「手」が主体であることをもっと明確に出すべきではなかったと思いますが、気づかずに見ていますと第三者的視点の映画とみてしまいます。体を失った「手」が記憶をたぐって本来自分があるべき場所を探し求める物語なんです。
今、映画.comを見ましたら書いてありました(笑)。
パリのとある医療研究施設で切断された手が、施設から逃げ出す。再び自身の身体とつながりたい手は、身体の持ち主であるピザの配達人ナウフェルを捜して、ネズミやハトに追いかけられながらも街をさまよう。手は、何かに触れるたびに記憶がよみがえっていき、ナウフェルの幼少期や、思いを寄せる司書ガブリエルとの思い出が明らかになっていく。
3つの時間軸で構成されています。
まず切断された手が失った体を求めて街中をさまよう時間軸、次に過去の時間軸、これは白黒で表現されていますので、ああ回想なんだなとすぐに分かります。そしてもうひとつの時間軸がナウフェルという青年の物語で、過去の白黒シーンの少年がナウフェルということもわかります。
で、上に引用したストーリーを知らずに見ていましたので、手のシーンとナウフェルのシーンの関係がナウフェルの手が切断されるシーンまでよくわかりませんでした。つまり、一つ目と三つ目を同じ時間軸の話としてみていたということです。
それもひとつのねらいであったかも知れませんし、単に私が気づかなかっただけかも知れませんが、どうなんでしょう、たとえば引用の「手は、何かに触れるたびに記憶がよみがえっていき」ということは、二つ目と三つ目の時間軸が「手」の記憶ということなんですが、そう見えるようには作られていなかったです。
その意味では、この映画、(私には)ある種ミステリーと見えなくもなく、つまり、「手」がナウフェルのものだと気づかなければ、一体誰の「手」なんだという見方もあるということで、実際、私は「手」はナウフェルの父親の手か、女性の手ではないなあと思いはしつつも母親の手かもと考えていました。
過去の白黒シーンで強調されているのは、父親がナウフェルに手で蝿を捕まえるコツを教えていることと母親がチェリストでナウフェルにピアノを教えていることです。そのどちらも「手」が重要であり、画としても強調されています。
いずれにしても、過去シーンとナウフェルのシーンの関連から両親が亡くなっていることはかなり早い段階でわかりますので、その点からも両親が亡くなったことに関連して、両親どちらかの「手」なんだろうと思っていました。
とにかく、そうしたことは置いておいても集中して見られる映画ではあります。大きな理由は、予告編で聴いての通りの音楽と三つ目のナウフェルの物語の会話にとてもエスプリが感じられることです。
切断された「手」の動きなどはアニメーションの得意とするところだとは思いますし、「手」の目線からの画におもしろいところも多いのですが、ほとんどアニメーションを見ない私でもさほど新鮮さを感じることはありませんでした。
「手」は擬人化され、指先で立ち、とことこと歩き、時にジャップし、風に飛ばされ、鳥に襲われ、地下鉄の線路に落ち、危機一髪逃げ込んだ先でネズミに襲われ、ひたすら「失くした体」を求め続けます。
三つ目の物語、「失くした体」ナウフェルは両親を亡くしており、今はピザ屋で働いています。仕事があわないのでしょう、ミスをしてはオーナーに怒られてばかりです。
ある日、高層アパートメントの一室にピザを届けることになります。しかし、途中、車との接触で転倒し、20分で届けなくちゃいけないところ40分もかかってしまいます。エントランスからチャイムを鳴らします。
部屋の主ガブリエルとの会話、このやり取りがとても洒落ているのです。
ピザが遅れたこと、一階のネームプレートを前の住人のままにしていること、ドアを解錠するもなぜか開けられないことなどなどがフランス人やねえ(知らないけど)と思わせる感じで続きます。
ピザは転倒のせいでぐちゃぐちゃです。それに気づいたナウフェルはそれを自分で食べ始めます。会話は続いています。ガブリエルは図書館で働いていると言います。そうしたプライベートなことを話すことに違和感はない会話ということです。雨が降り始めます。窓から下を見下ろしているらしいガブリエルが教えてくれます。
ナウフェルは恋をします。
後日、声の主を求めて、図書館を訪ね、後をつけます。ガブリエルが入った先は木工職人の家、叔父のようです。ナウフェルはそこで働くことになります。
月日はたち、冬です。
ナウフェルは屋上に木製のイグルーをつくり、ガブリエルを招きます。そして、テーブルの上にピザを差し出します。
と、感動のシーンかと思いきや、ガブリエルは、ストーカーまがいのナウフェルの行動を知り怒って去ってしまいます。
失意のナウフェル…なんですが、私が見落としているのか、こうした人間の心理表現に対するアニメーションの限界なのか、その後のふたりが描かれることはなく、シーンはナウフェルの木工の作業になり、電動ノコギリで木材を切ろうとしています。そこに蝿が飛んできます。
このシーンでやっとわかりました(笑)。
「手」は体を失います。
病院のベッドに横たわるナウフェル、やっと「手」は失った体を見つけます。一つ目と三つ目の時間軸が重なった瞬間です。ただ、「手」が体を取り戻すことはありません。
ここまででしたら、「手」が記憶を辿っていく話として違和感はないのですが、この後のシーンは「手」は関係なくなっているように感じます。
ナウフェルがいなくなっています。ガブリエルがその形跡を辿り例の屋上へ行きますと、雪が積もり、ナウフェルの足跡が屋上の縁にジャンプ台のように置かれた板に向かっています。
ナウフェルは空に飛び立ったということなのでしょう。映画はナウフェルがジャンプして向かいの工事中のクレーンに飛び乗ったシーンを見せていました。
はっきりは記憶していませんが、映画の冒頭も予告編と同じように飛行機のカットで始まっていたようでもありますし、過去のシーン、子どものナウフェルが浜辺で手を広げて飛行機のように走っていくカットもあります。
現実的な言い方をすれば、ナウフェルは自殺したということだと思います。
とても興味深く、見ている時は疑問など感ずることなく集中して見られる映画でしたが、今思い返してみますと、面白かったのはナウフェルの物語であって、「手」が失くした体を求めてさまよう、本来アニメーションの持ち味が生かされなくてはいけないところではさほど面白さを感じることはありませんでした。
アニメーションというのは実写よりも、特に人物の表現力では劣るわけですから(怒られるかな…)、アニメーション(技術)それ自体の新鮮を前面に出すか、物語の構成や音楽で引っ張っていくかだと思います。この映画で言えば後者の点において、最終的に焦点が絞りきれなくなってしまったのかもしれません。
ちなみに原作は、「アメリ」の脚本家としても知られるギョーム・ローランさんの小説「Happy Hand」とのことです。
アニメーション初心者の感想でした。