これは、DV加害者、DV被害者の心理を描こうとした映画ではない
2017年ヴェネチア映画祭の銀獅子最優秀監督賞を受賞しています。グザヴィエ・ルグラン監督は現在39歳のフランス人、この映画が初の長編とのことです。
なかなかテーマや監督の立ち位置がわかりにく映画です。
もちろんDVを原因とする離婚調停中の男女、そしてその間の子供たちの不安(だけではないけど)を描いていることはわかっているのですが、なにせ思わせぶりなシーンが多く、いったいこの映画はどこへ向かっているのだ? という(見ていての)迷いが最後まで消えませんでした。
そして、ラスト、いきなり猟銃をぶっ放すわけですから、結局、何だ、そんなことがやりたかったのかと、正直、呆れてしまった、という映画です。
映画は、離婚に至る経緯をほとんど描いていません。言葉ではちらちらと夫アントワーヌ(ドゥニ・メノーシェ)の暴力が語られますが、それも11歳の息子ジュリアンの証言の中くらいで、妻ミリアム(レア・ドリュッケール)自身が、離婚調停の場においてでさえ夫の暴力について語ることはありません。
それに、ミリアムは、アントワーヌに付きまとわれることを避けるために、住まいを変えたり携帯電話も変えたりしているわけですから、そもそも夫婦同席の離婚調停ということ自体に違和感を感じます。人権感覚においては日本よりも進んでいる(と思う)フランスなのに、それぞれ別室で話を聞くなどの配慮はしないのでしょうか? それに、親権を争っているジュリアンの陳述調書をあんなふうに読むこと自体あり得るんでしょうか? ましてや、調停委員(裁判官?)が、ジュリアンの陳述は両親に知らされることを本人に話して聞き取りしたものだと言っていましたが、そんなことがあり得るんでしょうか? そんな方法で子どもの本音が聞けるはずはありません。
そして、調停の結果は一週間後に知らされるわけですが、フランスでの離婚調停というのは、双方の同意がなくても、まるで裁判の判決のようにくだされるものなんでしょうか。仮に、あれが裁判であれば普通は控訴できるでしょう。
そうした疑問が次から次へとやってきて、この映画が何をしようとしているのかよくわからないままに進んでしまいます。
18歳でしたか、娘ジョゼフィーヌの話もかなり意味ありげに描かれていましたが、結局本筋と絡むことはありませんでした。
ジョゼフィーヌには恋人がいます。ジョゼフィーヌがトイレで妊娠検査薬を使うシーンがあり、おそらく妊娠していたのではないかと思いますが、その後、全く忘れ去られています。妊娠していないのであればあんなシーンを入れる必要はないわけですから、いったい何をしようとしたのか全くわかりません。
パーティーのシーンもそうです。いったい何のパーティー? ミリアムがパーティーの準備をしたりしていましたから主催側なんでしょう。ジョゼフィーヌがステージで歌うことがかなり強調されていましたので、それが関係していたのか、とにかくよくわかりません。
それに、終了後、ジョゼフィーヌとその恋人(ギターを弾いていた)が、おそらくレンタルスペースなんでしょう、後片付けをして、部屋を出る際に、何やら鍵らしきものをジャラジャラといくつも床において出ていきましたが、あれは何? 駆け落ちですかね?
とにかく、本筋に関係がないのであれば、あんな思わせぶりなシーンを入れるのは邪道です。
そのパーティーに、アントワーヌがやってくるわけですが、その経緯の会話を、パーティー会場の音楽のために一切聞こえない(観客に聞かせない)という演出を使っていましたが、あざとすぎます。
アントワーヌがパーティー会場の外に来ています。ミリアムがひとりで出ていきます。ミリアムに不安や怯えのようなものは感じられません。
私もDVの実際を知っているわけではなく、又聞きで聞いたり、ネットで読むくらいですので、どうこうは言えませんが、あのシーンにリアリティはあるんでしょうか?
で、その日の夜中、ミリアムとジュリアンが眠っています。ドアベルが鳴り始め、止むことはありません。アントワーヌが押しかけてきたのです。ミリアムは無視します。
警察に電話じゃないですかね?
あれだけ冷静なミリアムですから、動転して何も出来ないということはなく、放っておけば帰っていくと考えたということになり、それならば、いったいアントワーヌのDVとはどういうものなのかという疑問がわいてきます。
ドアベルが鳴り止みます。突然、ミリアムがドアに駆け寄り、覗き穴から廊下を見ます。エレベータから誰かが降り、廊下の電灯が自動点灯します。
あれもよくわからないです。ジョゼフィーヌはまだ帰っていなさそうでしたので、ミリアムはふとそれが心配になって様子を見に行ったのでしょうか。もし、エレベーターから降りてきたのがジョゼフィーヌあったのなら、アントワーヌはまずはジョゼフィーヌに詰め寄ると考えられますから、そうじゃなかったんでしょう。じゃあ、ミリアムはなぜ突然飛び起きてドアに駆け寄ったんでしょう?
わかりません。
で、アントワーヌはドアの内側にジュリアンがいることがわかっているのにドアに向かって猟銃をぶっ放します。
隣人が警察に通報してくれ、遅ればせながらミリアムも通報し、ミリアムとジュリアンは難を逃れ、アントワーヌは逮捕されて終わります。
これってDVという言葉で表現すべき事件ですか?
グザヴィエ・ルグラン監督自身の脚本のようですが、本当にしっかりとDVというものを取材したんでしょうか?
私はこの映画がDVを描いているようには思えません。現実のDVにこういうケースがあるないを言いたいのではありません。DVにも様々なケースがあるでしょう。それは皆もうわかっています。こんな危ない奴がいるということを描いても意味がありません。
描くべきはDV加害者の心理、DV被害者の心理です。この映画は、こんなことがあるよと言っているだけで、DVの被害者、そして加害者の何らかの問題をあぶり出しているようには思えません。
単に危ない人に付きまとわれた母子の悲劇にしか見えないということです。