ジャ・ジャンクー監督、「青の稲妻」「長江哀歌」、そしてどこへ?
2001年から2017年という17年間の時代の変化を背景にした男と女の、ではなく女と男の愛の変遷、言い換えれば女と男の意地の張り合いが描かれます。
前作の「山河ノスタルジア」も1999年に始まり、2014年、そして2025年と2000年代を時代背景としていましたので、およそこの20年が、中国という国の変化はいうまでもなく、ジャ・ジャンクー監督本人にとっても大きく変化した時代であったということでしょう。
「青の稲妻」が公開されたのは2002年、舞台となっていたのは大同(ダートン)です。この「帰れない二人」も大同の町から始まります。おそらくジャ・ジャンクー監督にとっては、あの「青の稲妻」がターニングポイントになったという意識が強いのでしょう。
あらためて「青の稲妻」を見てみましたら、それを意識したシーンがいくつもありました。一見してわかるのがチャオ(チャオ・タオ)の前髪ぱっつんのおかっぱ頭、それに名前も「青の稲妻」ではチャオチャオなのが、この映画ではチャオ、ちなみに前髪ぱっつんは「青の稲妻」ではキャンペンガール用のかつらです。
男のほうの名前のビン(リャオ・ファン)も、「青の稲妻」では、役回りは違いますがビンビンです。ビンがクラブ(ディスコ)で拳銃を落とすシーンも、同じように「青の稲妻」にもあります。
という感じで、「青の稲妻」では別々のカップルのチャオチャオとビンビンでしたが、この映画ではやくざとその愛人(あえての表現)です。ただ、やくざといっても映画からはその実態は掴みづらく、せいぜい麻雀店を仕切っているシーンしかなく、そこで仲間内の金の貸し借りのトラブルをその顔で収めていました。日本映画のやくざイメージではなく、もう少し一般の生活に密着した印象を受けます。
ほとんど説明なくいろんな人物が出てくるのは相変わらずですが、画の張り詰めた緊迫感はかなり落ちています。20年の歳月による成熟ゆえと考えるべきなんでしょうか。
ビンには、おそらく抗争相手がいるのでしょう、二人が車で走行中にチンピラたちに襲われ、ビンがボコボコにやられているの見かねたチャオが、持っていた拳銃で空に向かって威嚇射撃します。二人は拳銃の不法所持(だと思う)で逮捕され、チャオは、拳銃は自分が拾ったものだとビンをかばい5年の刑を受けます。ビンは1年の刑ですみます。
2006年、チャオが出所します。
こちらのパートは「長江哀歌」への…、そうですね、これが他の監督の映画であればおそらくオマージュと評される、その意味では「青の稲妻」も同じようにオマージュということになりますが、これが自分自身の映画となれば、何らかのけじめをつけたかったのかも知れません。
意識しているのかどうかはわかりませんが、「長江哀歌」は2006年の映画です。
出所したチャオですが、ビンは迎えにきていません。チャオは、ビンが三峡の町、奉節(フォンジェ)にいるらしいと知り奉節に向かいます。
「長江哀歌」でも、音信不通となった夫を奉節に探しにくる女性をチャオ・タオさんが演じていましたし、物語としても、探し当てた夫にはすでに恋人がいて自ら退くというところも同じです。
ジャ・ジャンクー監督らしいと感じたシーンがあります。
チャオとビンがホテルのような場所で対面する場面です。こういう二人のシーンの会話の間合いが独特なんです。会話の間のとり方とじっとその間合いを取り続けるカメラが(私には)何だかジーンと来るんですよね(笑)。それに、最初の方は気にかけていませんでしたので間違っているかも知れませんが、このシーン、ワンカットだったようにも思います。
とにかく、ビンは、自分が出所したときには何もかも失っており大同には戻れなかったなどと泣き言を言います。大同にいた時に登場した(関係はよくわからない)兄妹が、今では発電事業(だったと思う)で成功し、そこで世話になり、その妹のほうが今の恋人のようです。
チャオは未練のみの字もみせることなく奉節を後にします。チャオが意地を張ったということです。
あらためて考えてみますと、「青の稲妻」にしても「長江哀歌」にしても、物語を描くというよりも、それぞれの時代背景の中で、まさにその時生きている人々を描いているという印象でしたが、この映画は、逆にチャオとビンという人物の物語を2001年の大同、そして2006年の奉節に置いてみたという感じです。
その意味では、ジャ・ジャンクー監督がなにか壁にぶつかっているという感じがしなくもなく、この映画で、成功への道を駆け上がってきた20年を吹っ切って新しい地平に立とうとする意志の現れかもしれません。
話がまとまっちゃいましたが、映画は続きます(笑)。
ちょっと意味不明なんですが、チャオはウルムチに向かいます。正直なところかなり中途半端なパートです。チャオに吹っ切らせるための何かが必要と考えたのか、ウィグルに何らかの思いがあるのかよくわかりませんが、ただ、列車の中のホラ吹き男の話に乗ったようにみえても、そんなことはお見通しのような、チャオという女性のタフさといいますか、ひとりで生きていける強さが感じられるパートではありました。
2017年、およそ10年後の大同です。
チャオは、2001年のシーンでビンがいたポジション、つまり姐(あね)さんになってマージャン店を取り仕切っています。
車椅子のビンが、時代は移り変わって高速列車で大同の駅に降り立ちます。酒の飲み過ぎが原因の脳出血と本人が語っていました。チャオが呼び寄せたのか、ビンがチャオを頼ってきたのかはわかりません。
チャオとビンの立場が逆転しています。チャオがビンの庇護者になっています。麻雀のシーン、2001年ではチャオが寄り添うようにビンの隣りに座っていましたが、ここでは麻雀をするチャオの隣に車椅子のビンが座っています。
丘の上のシーンもそうです。2001年にはそこでビンがチャオに拳銃をもたせ撃たせるのですが、ここではチャオが車椅子を押し、静かに遠くの山を二人で見つめるのみです。
そうした状況に耐えられなくなったのでしょう。リハビリによって松葉杖でも歩けるようになったビンはチャオの元を去っていきます。ビンが意地を張ったということです。
ビンの後を追い外へ駆け出すチャオですが、ビンの姿はみえず、戻って防犯カメラをみますとビンが立ち去る姿が写っています。
と、滅茶苦茶ベタな女と男の物語です。
ただ、ジャ・ジャンクー監督には、そのベタさをベタのままには描けないのでしょう。中国という国のとてつもなく激しい変化という時代背景の中において、ヒトやモノの変化を散りばめながら描いていました。
もし、本当にジャ・ジャンクー監督が壁にぶつかっているとするなら、新しい方向性はフィルム・ノワールだと思います。この映画の2017年のチャオはそのひとつの可能性ですし、「罪の手ざわり」の第二話でみせたあのカッコよさとあの独特の台詞の間合いは絶対にフィルム・ノワール向きだと思います。
私は期待しています。