ホロコースト サバイバーの医師と少女、そして男と女
昨年2020年のアカデミー賞国際長編映画賞のショートリストに選出されたハンガリー映画です。結局ノミネートされなかったということで残念ですが、逆に言えばアカデミー好みじゃないいい映画ということでしょう(笑)。
アカデミー賞国際長編映画賞のショートリスト
昨年ですから「パラサイト」が作品賞を受賞した年です。その年の国際長編映画賞は何だったんだろうと調べてみましたらショートリスト(ノミネート前のリスト)がありました。
Czech Republic, “The Painted Bird”(異端の鳥)
Estonia, “Truth and Justice”
France, “Les Misérables”(レ・ミゼラブル)
Hungary, “Those Who Remained”(この世界に残されて)
North Macedonia, “Honeyland”(ハニーランド 永遠の谷)
Poland, “Corpus Christi”(聖なる犯罪者)
Russia, “Beanpole”
Senegal, “Atlantics”(アトランティックス)
South Korea, “Parasite”(パラサイト)
Spain, “Pain and Glory”(ペイン・アンド・グローリー)
この10作品でノミネートがこの中から5作品、そして受賞したのはポン・ジュノ監督の「パラサイト」です。
国際長編映画賞は部門賞とは違うわけですから他の作品にすべきです。自国公開作以外を Academy Award for Best International Feature Film とひと括りにしてしまうなんて思い上がりですね(笑)。ちなみにノミネートされ私が見ている映画から選ぶとすれば「レ・ミゼラブル 」です。
ホロコースト サバイバーのふたり
「レ・ミゼラブル」は怒りと暴力が渦巻くダイナミックな映画でしたが、「この世界に残されて」はそれとは正反対でとても(描写が)静かな映画です。しかし登場人物の心の中ではとても激しい感情が動いています。
この映画の良いところはその激しさを繊細な描写で静かに描いているところです。
ホロコースト サバイバーである42歳の男性医師アルド(カーロイ・ハイデュク)と同じくサバイバーの16歳の少女クララ(アビゲール・セーケ)の約5年間の物語です。直接的なホロコーストの悲劇が描かれるわけではありません。男は医師として働き、少女は学生として学校に通う日常生活の中の話です。
ふたりは出会った瞬間、悲しみに閉ざされた互いの心を感じ取ります。
アルドは妻と子どもたちを、そしてクララは両親と妹をホロコーストで失っています。その過去がどういう状況であったかには触れられませんが、アルドは家族の写真を鍵をかけた引き出しの奥に封じ込めています。クララは両親の死を断固として拒否し今でも両親宛てに手紙を書いています。もちろん投函されることはなく書くだけで自ら箱の中にしまっています。
クララは最初、医師として出会ったアルドに孤独感や同じ悲しみを抱える者の親近感から癒やしと安らぎを求め(たのだと思い)ます。やがて保護者として同居するようになるとアルドに次第に父親の姿を重ね合わせるようになり、そして成長するにつれ異性を意識するようになっていきます。
アルドの方はと言えば、クララとの初対面は産婦人科医としての診察ですし、それにアルドの日常は絶望した人間の惰性のようなところがあり、最初はクララの求めに感情が動くことはありません。しかし同居するようになればいろいろな感情も生まれます。娘にも見えればひとりの女性に見えることもあるでしょう。
そうしたふたりの心の動きが丁寧に繊細に描かれていきます。人間の感情にこれは友情、これは愛情、これは同情などと色分けなど出来ません。ふたりの間には様々は感情が入り混じります。
こうして言葉にしますと年の離れた男女のやや危ない恋愛のようにも取られてしまいますが、それをぎりぎりのところで描くことで緊張感を生み出しています。
説明的なものはほとんどありません。アルドのカーロイ・ハイデュクさんとクララのアビゲール・セーケさんの表情を追うことで絶望から希望を感じはじめるふたりの心の内を丁寧に描いていきます。
ネタバレあらすじとちょいツッコミ
1948年のハンガリー ブダペスト。ナチスドイツ降伏が1945年5月ですのでその3年後からスターリン死亡の1953年まで、約5年間の物語です。
冒頭はタイトルバックを意識したスローモーションシーンで入ります。実際にタイトルが入っていたかもしれません。病院の廊下を看護婦(士)が歩いていきます。振り返ってカメラ目線でなにか話しています。音声はありません。やがて診察室、医師アルドが写り込んできます。
これ、結構いい入り方でした。え?なんだろう?と引き込まれます。
診察室にはクララと大叔母がいます。大叔母はクララがもう16歳なのに生理が来ない(字幕は大人にならないとなっていた)と言っています。クララはブスッとした反抗的な表情を浮かべています。アルドは診察し無表情に心配ないと答えています。
このシーンから始めているのは、見る者にふたりが男と女であるということを意識させ、なおかつその間に医師と患者という一線を引くという意味でとてもうまい入り方だと思います。
アルドは一人住まい、病院や孤児院(慈善活動)へ行き来するだけの毎日です。このあたりのどこかにアルドの腕に数字の焼印があるカットが挿入されていました。
ある日、クララが生理が来たとわざわざ報告にきます。クララは勝ち気さを装った振る舞いで話し続けます。大叔母の話すことは日常生活のことばかりで退屈だ、学校の教師は馬鹿だ(みんな馬鹿に見えるみたいなことだったか?)、本を読むのが好きだ、ドイツ語(深い意味があると思う)もわかる、(何かを)訳してあげるみたいに話し続けてアルドの住まいにまでやってきます。
アルドにはクララの境遇もその振る舞いの奥にあるものも理解しているようです。不意にクララに影がさし、私は残された者と言いながらアルドに体を寄せます。アルドは戸惑いつつそっと抱きしめます。
クララは両親宛てに手紙を書いています。しかし手紙が出されることはありません。クララは大叔母に引き取られて二人で暮らしています。利口な子である上に過去の体験のPTSDによる情緒不安定から大叔母にも反抗的です。
その後、クララは頻繁にアルドの住まいを訪れます。ある夜、アルドがクララを家まで送っていきます。玄関先の路上でクララが抱きしめてと懇願します。アルドはクララを抱きしめます。大叔母がそのふたりを見ていたようです。アルドに電話をしてきます。アルドに隠すようなことはなくそのまま説明します。後日、大叔母がアルドのもとに来て保護者になるよう頼みます。
クララは大叔母とアルドのもとを自由に行き来する生活をすることになります。アルドはベッドを別に用意しますが、クララがアルドのベッドに潜り込んできます。アルドはそうしたことも受け入れ背を向けて眠る日々が続きます。
ふたりがその過去を語り合うことはありません。一度だけそれが事実なのか夢を見たのかはっきりしませんが、クララが妹について餓死させるために杭に縛り付けられた、両親に妹を頼むと言われたのに助けられなかったと語るシーンがあるだけです。また、映像としてはクララがアルドに父親を重ね合わせる画があります。
ある時、クララが化学の話をし始め、何かと何かが反応して水が生まれ塩素が残される(みたいな話)と話し始めます。アルドはいたたまれなくなりその場を外しバスルームにこもります。心配したクララに「私たちは塩素か」と言います。
後日(翌日?)、クララに手紙が残されており、自分のことを話していないのは不平等(違う言葉だったかも)だった、鍵を掛けた引き出しにアルバムがある、見ていいが見終えたら鍵をかけておいて欲しい、また何も聞かないでほしいと書かれています。
クララはアルバムを見ます。そこにはアルドの家族、妻と子どもたちの笑顔の写真が何枚も残されています。クララは泣き崩れます。
社会は親ナチスドイツ政権が崩壊したもののソ連支配下のスターリン主義政権が権力を握っています。肉親でもない年の離れたアルドとクララの生活はまわりから白い目で見られるようになり、権力も注視ようになります。公園で親しげに寄り添う姿を教師に目撃されさらに状況は悪化します。アルドの古くからの友人も政権党に入党したと言い、アルドに君を監視するよう指示を受けていると苦渋の面持ちで伝えにきます。
このあたりの社会情勢との関りをもう少し描いたほうがいいように感じましたが、おそらく徹底してふたりを追うことに賭けたのでしょう。それほどにアルドのカーロイ・ハイデュクさんと特にクララのアビゲール・セーケさんはよかったです。
クララが成長するとともに、またふたりともに周りからどう見られているかの意識もあるのでしょう、ふたりの関係が変化していきます。
クララは化粧をしダンスパーティーに参加するようになります。アルドは父親の顔で心配し、この本(多分、性交渉や避妊の本)を読むようにと渡しますが、クララはヴァXXにペXXを突っ込ませたりはしないと突き放します。
このシーンでクララはかなり真っ赤な口紅をしているのですがその次のカット、外に出たクララはその口紅を拭っています。こういう細かいカットの積み重ねでふたりの心のうちを描いていきます。
アルドは以前診察に訪れた女性エルジをデートに誘います。
かなり微妙な展開です。まず以前の診察では、詳細はわかりませんがアルドがその女性の乳房にしこりがないかを診察しており、その時多分乳首か何かに性的な兆候が現れたのでしょう、エルジが最近はそういうことがないのでと言っています。戦争で夫を亡くしているということでしょう。もちろんアルドは無表情で診察を進めています。
アルドがエルジを誘ったのはおそらくクララに性的欲望を感じる瞬間があったがためにその気持ちをそらすためだったのでしょう。また強い自制心ということもあるでしょう。映画はそのように描いています。もちろんエルジには不誠実であることはわかりますが、映画的にも、現実にもそういうことはあり得ることだと思います。
同じようにクララもダンスパーティーで知り合ったぺぺとデートを重ねます。映画は明らかに心の底から楽しんでいるようには描いていません。
ある夜、ふたりがいつものようにひとつのベッドで寝ている時、外が騒がしくなります。アルドはとっさに官憲の手入れと思い、自分は逮捕の覚悟をし、クララに大叔母のもとに行くよう指示します。しかしそれはアルドに対してではなく近所の誰かでした。
この出来事から映画の流れは一変します。
ある日、アルドはクララに、今日エルジという女性が訪ねてくると伝えます。それは結婚を意味し、クララへの決別の意味でもあります。またクララはクララでぺぺから求婚されます。
そして3年後(だったかな?)、大叔母の誕生パーティーです。アルドはエルジと結婚し、クララはぺぺと結婚しています。ラジオからはスターリン死亡のニュースが流れています。ぺぺはこれで自由だ!と叫んでいます。
アルドがバスルームへいきます。クララが後を追います。ぺぺがそれをちらりと見ます。エルジもちらりと見ます。クララがドアの前で大丈夫?と声を掛けます。アルドが出てきます。何事もなかったかのように皆で祝杯を上げます。アルドとクララが見つめ合っています。
なんとも深いラストシーンです。
結局映画も俳優か?
映画は監督のもの、舞台(演劇)は俳優のもの、ってのは単に私が思っているだけのことで、映画は編集でなんとでもなりますし、演劇は舞台に上がってしまえば演出の手を離れてしまうという意味で、それは今でも変わりなくそう思っていますが、それでもやはりこういう映画を見ますと、当たり前ですが俳優なくしていい映画は生まれないと思います。
アルドをやっているカーロイ・ハイデュクさんは現在41歳でそれなりにキャリアのある俳優さんでなるほどとは思いますが、クララのアビゲール・セーケさんは現在22歳くらいでこの映画が3本目の出演のようです。日本版の公式サイトにはこれが映画初出演とありますが、この二人、2016年の「ハンガリー連続殺人鬼」という映画で共演しているようです。
映画は監督のもの(ハリウッドを除く)であるのは間違いないと思いますが、やはり監督が俳優を信じないといい映画にはならないというのもまた間違いないことだと思います。
なお、バルナバ―シュ・トート監督は2000年くらいからたくさん短編を撮っている監督でこの映画が初めて(かな?)の長編のようです。プロデューサーは2017年のベルリン映画祭で金熊を受賞した「心と体と」のプロデューサーでもあるモーニカ・メーチさんとエルヌー・メシュテルハーズィさんです。