寓話的ファンタジーなのだが寓話性が足りず
「ルルドの泉で」のジェシカ・ハウスナー監督の最新作です。主演のエミリー・ビーチャムさんが昨年2019年のカンヌで女優賞を受賞しています。
ハウスナー監督の映画は日本ではほぼ10年ぶりということになりますが、2014年に「Amour fou」という映画を撮っているようです。英題は「Mad Love」ですので狂った愛みたいなニュアンスでしょうか、トレーラーを見ますと歴史もののような映画です。タイトル的には見てみたい感じがします。
で、この「リトル・ジョー」ですが、「ルルドの泉で」の印象からしますとかなり毛色の変わった映画で寓話的ファンタジーと言っていいと思います。
映画のつくりが特徴的です。
美術、衣装、ヘアメイクなどのビジュアルが、この物語を寓話的に見せるためにトータルにコーディネイトされています。色彩感覚で言えばリトル・ジョーと名付けられた真紅の花が目立ちますが、登場人物たちが着ているパステルグリーンの白衣など衣装はほとんどが単色です。バイオテクノロジーの研究施設ということでもあり無駄なものを省いたミニマムなセットが意識されていますし、アリスの住まいも極めてシンプルです。
アリス(エミリー・ビーチャム)のマッシュルームカットや衣装は時代背景を現代から遠ざけています。1950年代から1970年代あたりのデザイン感覚が多用され、物語が近未来的であるがために全体として寓話的ファンタジー感を醸し出しています。
そして音楽、伊藤貞司という方の「Watermill」からの曲がフィーチャーされています。ウィキペディアによりますとニューヨーク・シティ・バレエ団のために書き下ろされたバレエ曲とのことです。YouTubeでも聞けますが多分著作権侵害でしょう。
この曲が寓話性に貢献しているかどうかは尺八など和楽器を使った音楽を聞いて何を想起するかによりますので特に日本人にはかなり微妙ではあります。
カメラワークも特徴的です。タイトルバックからしてかなり意識されています。パン(的なものも含め)が多用されており、また構図も相当意識されているように感じます。「ルルドの泉で」もそうですが固定カメラを使った安定した構図が多いです。
という、ビジュアルにはかなり計算されて作り込まれた映画です。
しかし、その寓話そのものがはっきりしない上に一体現実の何を比喩的に描こうとしているのかよくわかりません。
生物学者のアリス(エミリー・ビーチャム)は人を幸福にする香りを出す植物リトル・ジョーを作り出します。使ってはいけないウイルス(と言っていたような)を使っているとか、吸い込むと感染するとか、感染を回避するためマスクをしなくてはいけないとか、新型コロナウイルスを連想させるような点もありますが2019年の製作ですのでまったく関係はないでしょう。それよりも花粉症からの連想なのかなあと思います。
リトル・ジョーというネーミングは息子のジョーにちなんでいます。この息子との関係もこの映画のひとつのテーマのようで、アリスはシングルマザー、ジョーの父親は自然とともに暮らすナチュラリストという設定です。
後半になりますとジョーが父親と暮らしたいと言い出したりしますので、アリスの仕事がハイテクで人工的であることと対比させているのかもしれません。それにアリスは料理が苦手で食事はいつもデリバリーであることが強調されていました。
これに関してはハウスナー監督のインタビューを読みますと「働くことで子供を“蔑ろ”にしてしまっているのではないかと罪悪感に苦しめられている母親の物語」でもあると語っていますが、この映画からそれを読み取るのは難しいです。もしこうしたテーマを描きたいのであれば寓話的ファンタジーというスタイルは不向きだと思います。
ただこの答えもインタビュアーへのリップサービスということもありますので実際のところどうだかはわかりません。
で、肝心の主要なテーマのリトル・ジョーです。
リトル・ジョーは人を幸せにする香りを出す代わりに自身は不稔性で種を生み出せません。何もしなければその個体は死に絶え、自らは子孫を残せません。
リトル・ジョーが自己保存本能を発揮し始めます。人間に花粉を吸わせて自分を生き延びさせるために人間をコントロールしようとします。
アリスの家庭ではジョーが花粉を吸い、研究所では同僚たちが花粉を吸い、リトル・ジョーを生き延びさせるように行動します。
わかりました!
この映画、見ている時はなにかすっきりしないなあとそもそも何が気になるのかもはっきりしなかったのですが、今何が原因かわかりました。
そもそもリトル・ジョーが自己保存の意志を持つべき理由がありません。誰もリトル・ジョーを絶滅させようなどと考えていません。すでに大量生産も可能になっているわけですから次から次へと製造すればリトル・ジョーが絶滅することはありません。リトル・ジョーが他の植物を絶滅させようと攻撃的に振る舞うからこそ人間に防御姿勢が生まれています。
実際、ひとりの研究員がなにかおかしい、リトル・ジョーがなにかしていると温度を下げたり(低温が嫌い)して妨害しようとしますが、それだってリトル・ジョーが自分の犬や人間を花粉でコントロールしようとしたからです。リトル・ジョーが何もしなければ誰もリトル・ジョーに敵対などしません。
いやいや、リトル・ジョーのあるひとつの個体が自ら生き延びるために意志を持ち始めたと考えることもできるという向きもあるかもしれません。でもそれですと、あの大量生産シーンが意味をなさなくなります。
人間のつくった人工物が意志を持ち始め人間をコントロールしようとする物語であれば過去にもいろいろあります。それがテーマであれば寓話的ファンタジーではなく近未来アクションか近未来サスペンスもので描いたほうがうまくいきそうです。
つまり、この映画の物語はすでに人の心(脳?)を侵食する何かが存在しているところからスタートしています。物語が寓話的であるためには人の行いが発端である必要があります。この映画がなにかはっきりしないと切れが悪く感じるのはここらあたりが原因ではないかと思います。
とにかく、映画はあれこれ進展し、皆が花粉を吸い、ついにアリスも花粉を吸い、リトル・ジョーに疑問を持つものはいなくなります。
という映画です。
ひとつ可能性があるとすれば、知らないうちに徐々に人間社会に浸透する得体のしれないもの、思想、宗教、最近で言えばナショナリズム、ポピュリズム、さらに言えば悪意、ヘイト、そうした社会の好ましからざる傾向を比喩的に描いているということも考えられます。
そう考えれば、そもそもの発端はアリスであり、そのアリスでさえその得体のしれないものに飲み込まれてしまうわけですからそのことこそを強調すべきであったとも言えます。
同じく下記リンクのインタビューで物語のアイデアについて尋ねられ「本作は人の中に存在する奇妙なモノの比喩」と語っているのはこのことかもしれません。
「ルルドの泉で」のような、リアルでありながら不可思議な物語を描いたほうがいいのではと思うジェシカ・ハウスナー監督でした。