言うまでもなく黒澤明監督の「生きる」のリメイクです。脚本はカズオ・イシグロさんです。
オリジナルに忠実なリメイク版
オリジナルへのリスペクトが感じられるリメイクです。黒澤明監督の「生きる」をほぼ踏襲している印象です。ただ、なにか足りない感じを受けたのも事実です。
オリジナル版は、もういつ見たのかもはっきりせず、しかも DVD で見ていると思いますので残っているのは強烈な印象と大まかな物語の流れだけです。ですので何を足りないと感じたのかあらためてオリジナル版を見てみました。
やはり、すごいです。見たことがある方も、見ていない方も、この「生きる LIVING」を見た後に一度黒澤明監督の「生きる」を見てみるといいと思います。
何がすごいかは後にして、まずはこの「生きる LIVING」です。
ゾンビ、生きていても死んでいるよう…
時代設定はほぼオリジナルと同じ1953年です。場所はロンドン、志村喬さんが演じていた主人公の役人をビル・ナイさんが演じています。
冒頭は列車で役所に通勤する4人の役人たちのシーンで始まります。皆ぴしっとスーツを着こなし山高帽をかぶった英国紳士です。新人のピーター(アレックス・シャープ)が軽口を叩きますと皆がたしなめるという堅苦しさです。そのわけは上司のウィリアムズ(ビル・ナイ)の存在がゆえとの演出がされています。途中駅でウィリアムズが乗ってきます。厳格さを漂わせています。駅に到着しても皆一歩下がって後について行くといった具合です。
1950年代の英国紳士がどんなものであったかはわかりませんが、ちょっと驚くような演出です。
ということで、オリジナルにあった終戦後すぐの日本の雑然とした空気とは違った格式張った感じで始まります。ただ、その後の物語の展開はオリジナルとほぼ同じように進みます。
市民課のオフィスです。山積みの書類に囲まれていれば忙しい振りができるといった体で、回ってくる書類は検討されることもなくさらに上に積まれるか次へ回されるかです。数人の女性たちが、空き地に下水が溢れて不衛生なので整備して公園にしてほしいと陳情にやってきます。担当は下水課だの公園課だとの言い、取り合う気さえありません。結局、女性たちはたらい回しにあい、再び市民課に戻ってくるといった有様です。そして、書類の山はさらに高くなっていきます。
その日、ウィリアムズは早引けし医師のもとに向かいます。そして、がんを宣告され余命半年と告げられます。ウィリアムズは息子夫婦に話そうとするも言い出せず、また息子もそっけない態度です。
ウィリアムズは次の日から出勤することなく町を歩き回り(リゾート地だったらしい…)、パブで知り合った男に声をかけ、自分は余命わずかだが人生の楽しみ方を知らないと言います。男はダンスホールやゲームセンターやストリップまがいのショーパブのようなところへ連れて行ってくれます。しかし残るのは虚しさだけです。
翌日(かはっきりしない…)、町でばったりと部下のマーガレット(エイミー・ルー・ウッド)に出会います。マーガレットは転職するのでウィリアムズの推薦状が欲しいと言います。ウィリアムズはフォートナムズのランチに誘い、マーガレットの明るさに惹きつけられます。マーガレットは役所の仕事は退屈で気を紛らわせるために皆にあだ名をつけていると言い、ウィリアムズはゾンビだと言います。
後日、再びウィリアムズはマーガレットを誘い、映画を見、食事をし、さらにお酒に誘い、自分はがんで余命幾ばくもないと告白します。驚くマーガレットですが、悲しみをたたえつつも笑顔を浮かべて役所へ戻るべきと返します。その笑顔を見つめるウィリアムズがはっと何かに気づきます。
翌日、出勤したウィリアムズは猛然と行動し始めます。雨の中傘も持たずに陳情のあった空き地の視察に出掛けます。
死後語られる、生きたあかし…
数カ月後、ウィリアムズの葬儀です。この展開もオリジナルと同じで、回想で公園建設に奔走したこの数ヶ月のウィリアムズの姿が明らかにされるという流れです。
葬儀の場では上司のジェームス卿(役所の上層部ということ…)や役人たちが公園完成の手柄を取り合うような会話をしています。
ウィリアムズの息子がマーガレットに、父ががんであることを知っていたかと尋ね、なぜ自分に話してくれなかったんだろうと悔しそうに語ります。マーガレットは言葉では返しませんがその表情で答えています。
葬儀を終えた冒頭のシーンの4人の帰りの列車の中です。なぜウィリアムズが変わったのかを話し合い始めます。それぞれが知る話の間にフラッシュバックでウィリアムズが空き地に溢れる下水の中に構わず入っていくシーンや役所の各課にしつこいほどに足を運び、ジェームス卿のそっけない対応にも引き下がることなく粘り、ついに公園を完成させるシーンが挿入されます。
4人は、これからはウィリアムズに習って悪習をあらためていこうと誓いあいます。
後日の市民課、役人たちは相変わらず山積みの書類に埋もれて回ってきた書類に目を通すこともなく次へ回しています。
新人のピーターは、葬儀の際にウィリアムズの息子から君にと手渡されたウィリアムズの手紙を読み、行き詰まった時はあの公園を思い出してほしいとの言葉に従い公園に向かいます。
警官がやってきます。役所の者だと話しますと、警官は、あのときウィリアムズは雪の中、ブランコに乗って歌を歌っていた、その姿がとてもうれしそうだったので声を掛けずにその場を去った、声を掛けていればこんなことにはならなかったと自責の気持ちをにじませながら語ります。ピーターはウィリアムズががんだったことを告げ、声を掛けなくてよかったんですと言います。
後日、ピーターとマーガレットがデートをするシーンで終わります。
黒澤明監督「生きる」の二重構造
最初に書きましたようにこのリメイク版には黒澤明監督の「生きる」へのリスペクトが強く感じられます。オリジナルの骨格を忠実に守りながら、オリジナルの表のテーマである「人はどう生きるべきか」をシンプルに打ち出そうとしています。オリジナルにはないラストシーン、ピーターとマーガレットのデートシーンはその典型です。二人に何かを託しているのでしょう。
という真摯な映画ではあるのですが、ただ、オリジナルからは何かが抜け落ちており物足りません。オリジナルにある全編通してただよう絶望感とどこか冷めた感覚がありません。
黒澤明監督の「生きる」は二重構造でできています。
オリジナルの冒頭は、いきなり胃のレントゲン写真が映し出され「これはこの物語の主人公の胃袋である。胃がんの兆候がみえるが本人はまだそれを知らない」のナレーションで始まり、役所の渡辺(リメイク版のウィリアムズ)が書類に判を押すシーンとなり、更にナレーションで「今この男について語るのは退屈なだけだ。なぜなら彼は時間を潰しているだけだから。彼には生きた時間がない。つまり、彼は生きているとは言えないからである」と入るのです。
つまりこの映画の前半、渡辺が死亡するまではすでにナレーションで語られたことが具体的な映像として提示されているということになります。それでも面白く見られるというのは黒澤明監督の天才的才能ということですので、それは誰にも真似が出来ないものとしておいておくとして、多くの映画は物語を語っていくことで成立しています。実際に起きていくことにしても回想にしても、見る者にとっては知らなかったことが明かされていくのが物語であり、それゆえにその物語に没入することができます。でも、すでに知っていることを見せられていくということは単純な没入ではなく、そこにある種の客観的視点というものをもたらします。
役所の官僚主義的な怠慢さを、見る者はそれとわかっていながらあらためてそれと突きつけられるわけです。こうした怠慢さは役所だけのものではないことは誰でもわかっています。心ある者はあるいは自分もと居心地の悪さを感じるのです。
ナレーションはさらに続けて「これでは話にならない。(略)一体これでいいのか?!一体これでいいのか?!」と畳み掛け、「この男が本気でそう考え出すためにはこの男の胃がもっと悪くなり、それからもっと無駄な時間が積み上げられる必要がある」と挑戦的に言葉を投げつけてくるのです。
そして、渡辺が病院で診察を受けるシーンになります。このシーンなんてもう本当に黒澤監督のうまさがひかります。わかっていることでもこんなに面白く見せられるのかというシーンです。まさにホラーでもありコメディでもあるかというシーンです。説明しますと長くなりますので見てください(笑)。
そして後半、葬儀の場です。ここでも最初に結果が提示されます。葬儀の場に新聞記者たちが駆けつけ、役所の助役に、表向きでは公園は助役や市会議員の尽力があったからとされているが本当は渡辺さんが頑張ったからではないか、町の人たちはそう言っているし、その渡辺さんがその公園で亡くなったということは無言の抗議ではないかと問いただします。
当然見る者はそうだとわかってここからのシーンを見ていくことになります。助役や役人たちが公園を作ったのは自分たちだと言えば言うほど、それが次には覆されるだろうことを期待して待ちます。役人たちが、役所は一人の力で動くものじゃないと言い、あるいは、選挙のために市会議員が動いた偶然だと言い、そして、結局決断したのは助役さなどとどれだけ言い募っても回想シーンによってあっけなく打ち消されていきます。
空き地の整備を陳情した女性たちが弔問に訪れるシーンは回想シーンと同じ意味合いを持っています。女性たちは何も語らず、悲しみと怒りをにじませた表情で焼香し怒涛のごとく去っていくだけです。圧巻のシーンです。
そしてラスト、市民課の役人たちは一時の勢いで渡辺の後を継いでいこうと誓いあいますが、もう次の日にはそんな誓いなどすっかり忘れて元の姿に戻ってしまいます。
これを絶望的と言わずしてなんと言えばいいのでしょう。また、その絶望感は二重構造というつくりの中でどこに向けていいものかもわからないまま棚晒しにされて終わるのです。
黒澤監督の本心はどこにあるのか…
黒澤明監督の「生きる」が人はどう生きるべきかといったテーマを持っているとしても、映画が見せているのはあくまでも死を目前にした人間がはたと気づいたということであり、その後の役人たちは一向にそのことに気づいてはいません。
それは官僚主義批判と一言で片付けてしまえるものではありません。組織、あるいは社会も同じようなものだとすれば、この映画が描いているのは社会の中にあって社会の持つ暗黙の強制力に立ち向かうことの困難さであり、この映画で言えば人の「死」をもってしかそれに立ち向かうことができないということです。
「生きる」は戦後わずか数年後に制作された映画です。黒澤明監督が太平洋戦争についてどう考えていたかわかりませんが、戦後すぐの時期において戦争というものへの意識が反映されないことはありえません。この映画にそれへの直接的なものがあるとは思いませんが、少なくとも焼け野原を経験、またその状態であった当時の社会を希望的にみていたとは思えない映画ではあります。