ロストケア

基本的テーマの重要性とは不釣り合いな雑なつくりの映画…

介護士の殺人という内容が内容なだけに、それにその介護士を演じるのが松山ケンイチさんですので見るのが怖くなります。2012年の日本ミステリー文学大賞新人賞受賞作の葉真中顕著『ロスト・ケア』が原作です。

ロストケア / 監督:前田哲

挑発する犯人、興奮する検察官

これは映画の基本的テーマと、その描き方と、そして映画の出来のレベルをわけて語らないといけないようです。

基本的テーマは、家族介護の過酷さは要介護者の死をもってしか解消されないという不条理です。それはとても重いテーマですので現実感を持って慎重に描かなくていけないのですが、この映画の描き方は、家族を救うために要介護者を殺した斯波(松山ケンイチ)と検事大友(長澤まさみ)をその本音で対立させて論争させていくという描き方です。映画というよりは二人の観念的な論争を見せられているようなものですので映画の出来としてはよくありません。

原作はミステリーのようですが、映画はミステリーではありません。早い段階で斯波本人が説明してくれます。

ある日、要介護の老人と訪問介護の所長の死体が発見されます。すぐに所長が窃盗を働くために老人を殺害し、自分は階段から落ちて死んだとされます。しかし、これまたすぐにその時間に斯波が車で老人宅を訪れる防犯カメラ映像が見つかり、斯波が逮捕(シーンは一切ない…)され、あれは事故だったと話し始めます。実際に所長の死はもみ合いの末の事故ということです。

この映画には警察の捜査は一切描かれていません。あんなカメラ位置の防犯カメラを誰が設置していたの?とは思いますが、突っ込み始めるときりがなくなりますのでそれは後回しにして、とにかく防犯カメラ映像の次のカットは大友の前に斯波が座っているシーンです。

その後、斯波が41人(プラス1人…)の要介護の高齢者を殺害していることが明らかになるわけですが、それも大友と事務官(鈴鹿央士)の二人が机の上で41人の死亡時刻と斯波の勤務時間などのデータから推測して割り出すようなワンシーン(クロスフェードなどを使い…)があり、即大友と斯波が向かい合う同様のシーンになり、そして斯波は殺害を認めます。

斯波は隠したりしません。堂々と大友に挑戦するように殺人は「救い」だったと言います。この映画の要介護者はすべて訪問介護ですので介護をする家族を救い、また死にたいと考える要介護者を救ったという意味です。斯波はそれを「喪失の介護、ロストケア」だと言います。

で、それ以後、斯波と大友の間で何が正しいかの論争が続きます。そんな映画、面白いわけがありません。正直、この描き方にはうんざりします。現実の家族介護の過酷さを描かずしてこの映画のテーマには迫れないだろうと思いますが、この映画の制作者たちは迫れていると思ったようです。

斯波は過去に父親の介護をし、生活にも行き詰まり、そして父親の求めに応じて殺しています。それがプラス1人です。誰も助けてくれなかったと語るわけですが、すべて回想ですので説明的です。今そこで起きている現実感ある過酷さを描かずして人を殺すことの善悪(ちょっと違う…)を語っても意味がありません。理屈っぽい論争を見せても映画になりません。

ましてや検事にマジで容疑者と論争させ、興奮させて、キレさせてどうしようというのでしょう。

家族介護の不条理さ

原作がどうかはわかりませんが、この映画は斯波を擁護しています。

斯波の論理はある意味正論でしょう。この映画は意志の疎通が難しくなっている要介護者ばかりを語っています。介護する家族を苦しめています(と、語っています…)。また、なぜか介護をする家族は子育てをしつつ働きそして親の介護もしなくてはいけないシングルマザーか、夫がいるにしてもさらに夫の仕事の手伝いもしなくてはいけない女性です。実際には、そう語っているだけで描かれませんが想像力があればその過酷さは想像出来ます。

しかし、その想像が殺人に結びつくことは一般的にはありえません。でもこれは映画ですので結びつけようと思えば出来てしまいます。不条理ではあっても過酷さから逃れる道が要介護者の「喪失」しかないとなればそこに結びつけることをやってしまいます。本音では助かったと語る家族まで登場させてしまいます。

それに、この映画には要介護者に死への欲求があるのではないかと考えている節があります。斯波の父親に死なせてくれと言わせているのもそういうことだと思います。他の殺害のシーンはありませんのでこの父親によって要介護者の思いを一般化しているのでしょう。

もちろん現実社会では斯波の論理は許されません。大友にムキに論争させているのはそのためです。大友は検事役ではあっても立ち位置は検事ではありません。社会の反映です。斯波の論理に反論しなくちゃいけない社会の反映です。

でも勝ち目はありません。斯波の論理が観念論だからです。社会は観念論で成り立ってはいませんし、ましてや介護の問題は個別の問題が重要なのであって、一般論で語れるのは社会でどうサポートしていくかということであり、その方法として介護士がいて、介護サポートがあり、介護施設があるわけです。

その介護士が観念的に家族が苦しんでいるだろうと考えて要介護者を殺害するという問題の立て方自体が間違っています。その問題の立て方でドラマをつくること自体が間違っています。仮にそうするにしても社会派の皮を被るべきではありません。映画のつくり手が斯波の論理にシンパシーを感じているということでしょう。

その本音が、論争に負けた大友に孤独死の父親や要介護の母親をおいて、それをネタにして斯波にも涙を流させてバランスをとるという意味不明な結末に現れています。

サイコパス的シリアルキラーなのに…

斯波は自らの体験を一般化し、家族介護の誰もが自分と同じだと思い込んで殺人に及んでいます。41人の事情をまったく描いていませんので想像でしかありませんが、介護士である斯波自身41人を家族介護しているわけではありませんので、仮に盗聴してその過酷さの一端を知ったとしても、それはあくまでも妄想でしかありません。その家族にしかわからないということです。その意味でも家族介護は個別の問題であり、一般化できることではありません。

自らの体験を誰もがそうであると妄想し連続殺人におよぶ行為、それはサイコパス的シリアルキラーです。

この映画は本来ならばサイコパス的シリアルキラーというジャンルの映画であるべきものを社会派ヒューマンドラマとして描くという大いなる間違いを犯しています。

タイトルバックを十字架からタイトルの「ト」にしたり、ラスト近く斯波の部屋に夕日で十字を出したり、挙げ句の果てに「汝のしてほしいことを人に為せ」の黄金律まで持ち出し、それがために大友の母親をクリスチャンにしたりと、あざとい設定もその間違いのなせる技ということです。

裁判官が多すぎないか…

映画のつくりが雑です。すでに書いた防犯カメラもそうですが、そもそも斯波は警察の捜査を終えて送検された身なんでしょうか、わからないシーン多すぎます。

大友が斯波を取り調べている段階で刑事が盗聴器が見つかりましたって持ってきていましたが、物的証拠もなく大友たちの机上の捜査だけで41人の殺害容疑をかけていたということでしょうか。

裁判のシーンでは検察を向かって右に置いていました。そういうこともあるようですが、それにしても裁判でも検察に喧嘩売るってのはやりすぎでしょう。それだけ斯波の論理に共鳴するものを感じているということなのでしょうか。

それにやけに裁判官が多かった(数人はいた…)のですが、あれはもう最高裁? 裁判員裁判かな? いずれにしても、裁判シーンでも論争させるだけなら裁判所じゃなくてもいいんじゃないかと思います。

ということで、かなり怒ってしまいましたが(笑)、とにかく、基本的テーマの重大性とは不釣り合いな雑なつくりの映画です。