時代の波に抗うことの意味を問う
監督のアレックス・カミレーリさんは本人が生まれる前に両親がアメリカに移住したマルタ系アメリカ人です。ですので、おそらく自らのアイデンティティに向き合うことから生まれた映画だと思います。
地中海のマルタ島でルッツという伝統の木造小型船で漁をする青年の苦悩を描き、本人名で青年を演じたジェスマーク・シクルーナさんが昨年2021年のサンダンス映画祭で World Cinema Dramatic Special Jury Award を受賞しています。また、SKIPシティ国際Dシネマ映画祭では最優秀作品賞を受賞しています。
マルタってどこだ?
マルタ製作の映画です。マルタがロケ地という映画は、ググりますと「コンフィデンスマンJP英雄編」もヒットするくらいたくさんありますが、この「ルッツ 海を生きる」はマルタ製作という珍しい映画です。ただマルタで立ち上がった企画ということではなく、レックス・カミレーリ監督の企画に The Malta Film Commission が資金提供したのではないかと思います。
マルタ観光局のサイトを見ますと、マルタで映画を撮るとマルタ国内で支払った制作費の40%をキャッシュバックするというロケ誘致政策をとっているようです。
で、知っているようで知らない(私だけかも…)マルタなんですが、公式サイトに地図がありました。
シチリアの南100kmくらいの地中海の島国です。イギリス連邦に所属、つまりはイギリスの植民地だったということになりますが、現在はマルタ共和国となりEU加盟国です。
本人名の主人公ジェスマークや同じく本人名で登場するデイヴィッドは俳優ではなく現地の漁師とのことで、映画ではルッツ漁専業として描かれています。ただ、現実的にはあのルッツ漁だけで生活してくことは難しいと思いますので地元のレストラン用の漁や観光漁業のようなものがあるのかもしれません(想像です)。
Berthold Werner, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
ウィキペディアにロケ地と思われるマルサシュロック港の画像がありました。ルッツがたくさん停泊しています。
感傷を排したネオレアリズモ
映画はジェスマークがルッツで漁をおこなうシーンから始まります。木造の小型船で網を投げ入れて回遊する魚を捕獲する業法のようです。大した漁獲量はありません。さらに悪いことに船底から水が侵入してきており、修理しないと漁に出られません。
ジェスマークは妻のデニス(俳優)と生まれたばかりの赤ん坊と暮らしています。妻も近くのレストランで働いています。生活は苦しいです。赤ん坊の検診で発育不良と診断され、治療には費用が必要です。デニスの実家はそれなりに裕福らしく、デニスは母親に頼ろうとします。しかしジェスマークは反対します。義母が自分たちに干渉し、デニスが母親の言うなりになるからのようです。
という八方塞がりのジェスマークが淡々と描かれていきます。演じているジェスマーク・シクルーナさんは現地の漁師とのことですが、彫りの深い目鼻立ちでそれなりの存在感があり自然体でも画になります。後にある義母たち家族とのシーンでは非俳優には難しい顔の表情の演技を求められていましたが、それなりに上手くこなしていました。
アレックス・カミレーリ監督はこの映画が初の長編で、こうしたリアリズム手法が持ち味であるかどうかはわかりませんが、このジェスマーク・シクルーナさんを発見したことが映画の成功につながっています。
第二次大戦後のイタリア映画にはネオレアリズモという映画潮流があり、ロベルト・ロッセリーニ監督「無防備都市」やヴィットリオ・デ・シーカ監督「自転車泥棒」がよく知られています。現実にある社会問題を客観的にリアリズムで描く手法で非俳優を使って撮られた映画も多いようです。その中にルキノ・ヴィスコンティ監督の「揺れる大地」というシチリア島の漁師一家を描いた映画があり、その映画も非俳優で撮られています。当然カミレーリ監督は見ているでしょうし意識していると思います。
「揺れる大地」は記録映画のような撮り方がされており、一方この「ルッツ」はかなり激しく動くハンディカメラがジェスマークを追う手法ですのでずいぶん違う印象ではありますが、どちらも見るものに感傷という感情を抱かせない点では近いものがあります。
時代の流れに抗うこと…
ジェスマークは友人のデイヴィッド(ジェスマークの実際の従兄弟)の協力でルッツの修理をすることにし、またデイヴィッドの船に乗船させてもらい漁に出ます。網にメカジキがかかります。しかし今はメカジキは禁漁期です。ジェスマークはすでに死んでいるし子どものためにお金がいるので持ち帰ると主張しますが、デイヴィッドが漁協(だと思う)に電話をし自家消費したいと交渉します。しかし認められません。メカジキは海に投げ入れられ、仰向けに浮いたままです。
二人は捕獲した魚を市場に持ち込みます。しかし仲買人が自分たちの魚を後回しにする上に正当な値段で売ってくれないと感じます。二人は自分たちでレンストランに持ち込み魚を売ろうとします。しかしなかなか売れません。そんな折、ジェスマークは仲買人が闇で魚をさばいているところを目撃します。
妻のデニスが子どもを連れて母に頼る道を選びます。ジェスマークはデニスにふたりで乗り越えようと言いますが、デニスは聞き入れません。実家に戻ったデニスを訪ねるジェスマークですが、義母と言い争うことになり、そこにジェスマークの居場所はありません。
そしてジェスマークは不正に手を染めることになります。仲買人の手下となって不正を働いている外国人労働者(アジア系かアラブ系?)をつてに仲買人にコンタクトをとります。
ところで、あの外国人労働者との会話は英語でしたが、字幕には山括弧の表記もありません。あの労働者はアジアか中東から出稼ぎに来ていると思われますのでかなり重要なことなんですが、ジェスマークたちが話すマルタ語と違うんだよということを示さないと映画の持っている意味合いが伝わってきません。最近では字幕が単なる翻訳になってしまっている映画が多くなっています。これも映画がいちコンテンツになってしまった弊害でしょう。
とにかく映画です。ジェスマークは悪の道にどんどん深入りしていきます。魚の横流しだけではなく、漁師たちの網を切り裂く行為にまで加担してしまいます。デイヴィッドの網までをもです。
デイヴィッドに任せていたルッツの修理が終わります。しかし、ジェスマークがその船で漁に出ることはありません。行政が勧めている(多分)ルッツ漁の猟師の再雇用政策のような施策があり、廃業すれば7,000ユーロをもらえます。
ジェスマークはそれに応じます。7,000ユーロを手にし、トロール船で働くことにし、デニスと子どもと暮らす道を選びます。(だった思いますが、間違っているかも)
ラストシーン、ジェスマークがデイヴィッドの船から釣り竿を取り出し浜辺に向かいます。デイヴィッドがじっと見つめています。ジェスマークは釣り竿を大きく振り糸を海に投げ入れます。
…抗うことの難しさ
古くから伝わることが効率重視の時代の波に飲まれていくことはたくさんあります。このルッツ漁もそのひとつでしょう。
ジェスマークの行為は良いとか悪いとかで判断できることではありません。映画はその現実をそのまま描いています。感傷的になっても何も変わりません。すでに我々人類は(ちょっと大層)その道を選んでしまっています。刹那的な言い方をすれば、坂を転がり始めたらもう止まることは出来ません。
ただ、ひとつ言えることはそれに抗う生き方を選択することに価値がないわけでもありません。その坂の先が崖なのか、平地なのかは誰にもわからないことです。