わたしは最悪。

ジェンダー、ポリコレを気遣うラブコメ

母の残像」「テルマ」のヨアキム・トリアー監督の最新作、昨年2021年のカンヌ映画祭でレナーテ・レインスベさんが女優賞を受賞しています。

私は最悪。 / 監督:ヨアキム・トリアー

自分探しものからラブコメへ

20代後半のユリヤ(レナーテ・レインスベ)は、自分の進むべき道が見つかりません。医学、心理学、写真と、SNS時代の情報過多に惑わされて、こここそが自分の居場所と思ってもなぜか新たなものに目移りしてしまいます。

という前ふりがあり物語は始まります。

ところが、その後の物語は、そうしたユリヤが何をしたいのかの迷いはそっちのけで、いつの間にやら自分探し物語はラブコメへと変わってしまっています。オイ、オイ(笑)。

ユリヤはグラフィックノベル作家のアクセル(アンデルシュ・ダニエルセン・リー)と知り合い、アクセルのアパートメントで同居します。アクセルは子どもが欲しい、ふたりで家族をつくろうと言います。しかし、ユリヤは同意しません。迷いがあるわけでもなく、そのつもりがないようです。

ある日、ユリヤはアクセルたちのパーティーに参加するも、どこか居心地の悪さを感じて抜け出します。そして、通りがかりに見た誰のとも知れないパーティーに潜り込みアイヴィン(ハーバート・ノードラム)と知り合います。

それ以降、アイヴィンのことが頭から離れません。そして、ある日奇跡がおき、時空を越えてアイヴィンと愛を確かめ合います。アクセルのアパートメントを出てアイヴィンと暮らすことにします。

アイヴィンとの楽しい日々が続きます。そして、ある日、ユリヤは妊娠していることを知ります。また、アクセルが癌に冒されていることを知ります。そして、ある日、ユリヤはアイヴィン(カフェのバリスタをやっている)に「そうやって50歳までコーヒーを売っているの?!」と侮辱的言葉を投げつけ、アイヴィンと別れます。

ユリヤは病床のアクセルを訪ね、自分が妊娠していることを話します。アクセルはおめでとうと言います。アクセルは亡くなります。

シャワーを浴びるユリヤ、足の付け根から血が流れてきます。ホッとするユリヤです。

そして、何年後か、ユリヤは映画の撮影現場でスチルカメラマンをやっています。

ジェンダー、ポリコレを気遣うラブコメ

という、今最もジェンダーやポリコレに意識が高いと思われる男性が考える女性を主人公にしたラブコメです。

ユリヤは家族を求めていません。それは自分が夫を持ち子どもを持つ家族ということだけではなく、父親(離婚している)への精神的依存を断ち切ることでも表現されています。母親は端から存在感のある人物として描かれていません。

社会の単位は家族ではなく個人です。ユリヤはそう考えているようです。

一方のアクセルは家族を欲しがっています。また、アクセルは性的描写や従来の男女関係をベースにした価値観のグラフィックノベル(漫画)の人気作家です。テレビのトーク番組に出演し、女性の対談者からその点を非難され、それに対して社会の毒のはけ口は必要(というような意味合い)だと反論しています。

アクセルはあえて反ポリコレ、反ジェンダーの人物として、そのことはわかっているけれども問題提起的にやっている人物として描かれています。俗物ではあるけれども知的ということでしょう。

ユリヤとアヴィルの出会いのシーンは、ジェンダー規範を徹底的にぶち壊そうとしています。初対面で互いに脇の匂いを嗅ぎあい、トイレに入り排尿するところを見せあい、ユリヤにはおならをさせています。そうした行為が愛し合うことの障害にならないところを見せています。

が、しかし、ユリヤにとって、つまりはこの映画の監督と脚本家にとって、愛の障害となるのは知性のようです。

アヴィルとの別れがやってきます。ユリヤは自分が書いた知的産物である「Oral Sex in the Age of #MeToo」へのアヴィルの称賛に突如キレます。あんたに何がわかるの?!ってことでしょう。

ユリヤにアヴィルを侮辱させることで何を見せようとしたんでしょう? 映画ですのでそれはそれとして置いておくとしても、その後まったくアヴィルを登場させないというのはどうなんでしょう? 監督と脚本家のどこかに、なにか奢りがなければいいのですが。

描かれているのはユリヤではなくアクセル

この映画はプロローグとエピローグと12章からなっています。というよりも、そう宣言して映画は始まります。

こういう手法は集中力を萎えさせます。それにちょっと引いて映画全体を見渡してみれば、何もプロローグだの12章だという必要のないくらい物語は連続していますし、各章に特別な意味合いがあるようには感じられません。

ユリヤは12の変化をしていません。アクセルやアヴィルを含め、いろんな人物と出会い、いろんな経験をし、それ相応に成長していっています。これまで描かれてきているラブコメとさほど大きく違っているところは感じられません。監督や脚本家が考えるポリコレ的ジェンダー意識が反映されているだけです。

で、結局、この映画はなんなのか?

この映画が描いているのはユリヤではなく、アクセルです。