市民ケーンの脚本家マンクをゲイリー・オールドマンが演じる
オーソン・ウェルズ監督の「市民ケーン」(1941年)の内容やその裏事情を知っていないとわかりにくい映画です。
昨年の12月4日からNetflixで配信されているようです。映画を配信で見る比率が高くなっているとのニュースを見かけるようになりました。私は集中できなく無理ですが、ただこういう映画は配信のほうが調べながら見られるという意味では向いているかもしれません。それにNetflix製作じゃないと出来なかった映画ではないかとも思います。
ゲイリー・オールドマンの映画
とにかくいろんな人物が登場し、いろんな名前が語られ、その上頻繁に回想が入りますので、誰が実在の誰なのかやその相関図を頭に入れておかないと楽しめない映画です。
つまり私は楽しめませんでした(笑)。ただ、ほぼ全シーンに登場するゲイリー・オールドマンを見る映画だと思えばそれはそれで納得できるかもしれません。
それにしてもゲイリー・オールドマン、現在62歳、映画のマンクは42歳ですからね、ちょっと違和感ありました。それに回想という過去だからということだけではなく、各シーンで雰囲気が相当変わっていた印象があります。
そう感じた理由には映画の流れ自体が良くないということもあります。
マンク「市民ケーン」執筆の物語は中途半端
映画の時間軸は、ひとつは1940年くらいからと思われますが、マンクがオーソン・ウェルズから90日間で脚本を書くよう依頼され、それを第一稿とした「市民ケーン」が制作されアカデミー賞脚本賞を受賞するまで、そしてもうひとつが1930年くらいからの話で、その映画のモデルとなったハースト(ウィリアム・ランドルフ・ハースト)とその愛人マリオン(マリオン・デイヴィス)にマンク自身が絡んだ物語ということになります。
まずひとつ目の時間軸の話です。「市民ケーン」の脚本は公式にはマンク(ハーマン・J・マンキーウィッツ)とオーソン・ウェルズのふたりがクレジットされています。しかし、そこにいたるまでにはふたりに争いがあったらしく、実際いろいろな説があるとのことですが、この映画ではマンクがひとりで書き上げたと描いています。オーソン・ウェルズは第一稿には全く関わっていないとされています。
ハリウッド(アメリカ)的にはそのこと自体にも意味があるのでしょうが、この映画は全編マンクという人物をゲイリー・オールドマンで描くことを目的にしているようにしかみえませんので、ウェルズの出番も少なく、マンクが脚本を書き上げるシークエンスに見どころはありません。
実際、描かれるのは、交通事故で下半身ギブスで動けなくなったマンクがベッドの上で書いているようなシーンとか、周りにくしゃくしゃと丸められた原稿が散らばっていたり、飲んだくれて眠り込んでいたりするシーンしかありません。
そして90ページしか書けていないのにあと30日(間違っているかも)しかないと言われていたと思いましたら、次のシーンではもう書き上がり、プロデューサーが絶賛したり、ウェルズもよくやったみたいに飛び込んでくるだけです。
で、その後の展開がよくわからないんですよね。マンクとウェルズのクレジット争いのシーンもありましたがさほど辛辣さは感じられませんでしたし、脚本がハーストとマリオンをモデルにしていることを問題とされるシーンやマリオン自身がマンクのもとを訪れたりするシーンはありますが、特に映画制作のシーンもありませんでしたし、マンクと妻サラのシーンとか、秘書のリタのエピソードやユダヤ人(だと思う)の看護士のフリーダが語るエピソードでお茶を濁していた感じです。
とにかく、ひとつ目の時間軸の物語は中途半端でまとまりを欠いています。脚本がよくありません。
回想の意味づけがよくわからない
そしてふたつ目のハーストとマリオンとマンクをめぐる回想ですが、これも一体何を追っているのかよくわかりません。
映画は「市民ケーン」をマンクが書いたと言っているわけですから、回想としてハーストとマリオンを描くのであれば、当然そこにはマンクがそこ(そのふたりやハーストの生き様)に何を見てモデルとしようとしたかが描かれていなければ回想の意味がありません。
回想として描かれるシーンはかなりとっ散らかっており、ハーストにしてもマリオンにしてもどういう人物なのか何も浮かび上がってきません。
回想のシーンにマンクを入れ過ぎでしょう。マンクの見た目のハーストやマリオンを描くのであればまだしも回想でさえマンクを追っています。ゲイリー・オールドマンの映画だと言っているのはそのことで、なのにそのマンクでさえ魅力的な人物に描ききれていません。
回想で描かれているのは当時の映画会社の買収の話やカリフォルニア州の州知事選の話です。
州知事選の話がかなりの比重を占めているのですが、その話がうまくマンクに結びついていきません。無理やりマンクの友人でハーストが推す候補の対立候補の中傷ニュースを制作した監督(かな?)に自殺させていましたが唐突すぎます。
この州知事選の話には、時代が大恐慌後の不況時代ということから、共産主義や社会主義、それにアナーキズム(なかったかな?)なんていう言葉まで飛び交う台詞となっているにも関わらず、全く不況下の社会など描いていないという薄っぺらさです。せいぜいが撮影所の入り口で職にあぶれた男(あれが自殺した監督だったか?)にお金をせびらせるシーンを入れているくらいで、深読みすればそうした不況下にあっても贅沢三昧のハースト周辺の映画界の虚構性を描いているという取り方もできますが、まあそれはないでしょう。
結局、脚本家を描きながら脚本が悪い映画ということだと思います。脚本はデヴィッド・フィンチャー監督の父親ジャック・フィンチャーが1990年代に書き上げていたものだそうです。
女性の描き方になにかありそう
映画の本筋よりも気になったことがあります。登場する女性たちです。
4人の女性が登場します。マリオン(アマンダ・セイフライド)、妻のサラ(タペンス・ミドルトン)、秘書のリタ(リリー・コリンズ)、看護士のフリーダ(モニカ・ゴスマン)です。
1930年代という時代ですしハリウッドですので映画は完全に男たちの物語ではあるのですが、この4人が不思議な存在感を持っています。物語の本筋には絡んでこないのになぜか皆凛とした佇まいで登場します。
4人ともに映画の中の(男の)世界とは別次元に存在しているように見えます。
ウィキペディアでマリオンの項目を読みますとあまりいいことは書かれておらずあくまでもハーストの愛人であったことに焦点が当たっています。たとえば マリオン・デイヴィス – Wikipedia には、
ハーストは、金に物を言わせ、マリオンを世界一のスター女優にしようと、彼女のためだけのプロダクション会社「コスモポリタン」を設立。パラマウント、MGM、ワーナー・ブラザースなど、ハリウッド大手のメジャースタジオと提携し、有名監督を起用して、46本の主演映画を作らせたが、マリオンの演技力は乏しく、ハーストの20年に及ぶ投資(700万ドルともいわれる)の甲斐もなく、出るものすべてが不評に終わる。
マリオンはハーストとの関係を初めは楽しんでいたが、寝室は別で、彼女は彼のことを「パパ」と呼んだ。マリオンの伝記作家のフレッド・ガイルズによれば、マリオンはたびたび相手役の俳優に夢中になったが、ハーストは自分では、彼女を充分に満足させられないことを承知しており、浮気は公認だった。
とあります。
なのに映画はそうした描き方をしていません。なにか決定的な役割を与えられているわけではないのですが、芯がある人物として、語らないけれども自分の意志で行動しているように描かれています。
妻のサラも同様で、マンクはサラを「poor Sara」と幸せにできていないとの自虐的ニュアンスで呼びかけ、なぜ自分と一緒にいる?と甘えるわけですが、サラはそれに対して決してマンクと同じ次元に降りていかずそれが役目であるかのように淡々と夫のサポートをします。それを夫を包み込む愛情という言葉で表現することも可能ですが何かちょっと違うんですよね。とにかく佇まいが映画の男たちとは違います。
ラスト近くで「poor Sara」なんて呼ばないでと、映画の流れ的にはそんなに自分を卑下しないでとマンクへの優しい言葉でしょうが、そうであればその後にあるべきサラのカットがありません。
リタはイギリス(?)海軍のパイロット(だったかな?)の夫と離れてマンクの秘書をやっています。有能な秘書として描かれています。後半にリタが手紙を読むシーンでマンクが夫からの手紙かと茶化すようなことをべらべらと話し、実はそれが大西洋沖で空母が沈没したとの知らせだったというくだりがあり、もちろんそれはマンクの人物像を描くためのシーンですのでリタを追うことなくマンクのカットに移っており、結局ラスト近くで無事だったことがわかり、リタはマンクにもっとデリカシーを持ってほしいと言っています。
フリーダのシーンは少ないのですが、こちらも淡々と看護士としての役割をこなす人物として描かれています。後半には本人の言葉だけの話でしたので意図を掴みかねますが、マンクがナチスの迫害から自分の村全員を救ってくれたと語っています。これもマンクのためのシーンですが結果としてフリーダの人物像が見えてきます。
深読みなのか、結果としてそうなってしまっただけなのかわかりませんが、ハリウッドという男社会を女性たちが冷めた目で見ているような視点を感じた映画でした。
ああ、そう言えば画にパンチ(フイルムの場合の巻の終わりの印)まで入れるこだわりようでした。もちろんモノクロで撮っているのも同じ意味です。