ミーツ・ザ・ワールド

この原作、松居大悟監督向きじゃなかったかもね…

金原ひとみさんの『ミーツ・ザ・ワールド』の映画化です。監督は松居大悟監督、これは結構楽しみです。

ミーツ・ザ・ワールド / 監督:松居大悟

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ネタバレあらすじ

金原ひとみさんの作品はデビュー作の『蛇にピアス』から続けざまに数冊(もっとかな…)読み、その後、ちょっと雑に感じられるものが多くなってきた(と感じられた…)ためにしばらく離れていたんですが、数年前からまた読み始めています。

で、この『ミーツ・ザ・ワールド』、金原ひとみさんの良さは小説としての完成度よりも書き手の思いがその文章の意味を越えて溢れ出ているというその強さであり、この『ミーツ・ザ・ワールド』はそのふたつが割とバランスよく共存している作品です。

ですので、金原ひとみさんの作品の中では比較的映画にしやすい小説かと思います。ストーリーは下のリンク先のレビュー記事に詳しく書いています。

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ミート・イズ・マインまでつくったか…

三ツ橋由嘉里(杉咲花)27歳、銀行勤め、腐女子を自認しています。腐女子が BLオタクという意味であれば、由嘉里はそうではなく『ミート・イズ・マイン(MIM)』という焼肉擬人化漫画オタクです。

この『ミート・イズ・マイン』は小説内の創作ですが、映画ではそのキャラクターからグッズまでオリジナルで作っています。ちょっとしたストーリーありのアニメーションもあります。結果としてはこの選択がどうなんだろうという映画でもあります。

由嘉里は同僚に誘われた合コンで腐女子であることをバラされ、悪酔いして歌舞伎町の路上で酔い潰れてしまいます。たまたま通りがかったキャバ嬢の鹿野ライ(南琴奈)に声を掛けられ、美しいライにあなたのようになりたかったとつぶやきます。ライは300万あればなれるよ、300万あげようかと言い、そのまま由嘉里を自分のマンションに連れて帰ります。

ライの部屋はゴミ屋敷です。ダメですよ、これは、と言う由嘉里に、ライはそんなことにはまるで関心などなさそうに「自分にとってはこの世界から消えているのが自然の姿。私が消失したら、私はようやく私の存在を認められる」と言います。そして翌朝、ライは仕事に出かける由嘉里にここに帰ってきていいよと送り出します。

という出会いがあり、由嘉里とライの共同生活が始まります。

生きることに貪欲なオタクが自分の存在を否定的にみるキャバ嬢に出会うわけです。このキャバ嬢の方、ライの描き方が難しそうです。ライは、決して「死にたい」と言っているわけではなく、生きている実感がないと言っているだけで、いわゆる希死念慮の状態にあるわけではありません。

由嘉里の方は俳優力次第、ライの方は存在感次第となりそうな映画です。実際、原作でもライの人物像ははっきりしておらず、私はライとは由嘉里の内面にある「死」の概念と読み取っています。

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新宿歌舞伎町の人々…

由嘉里の人物像ははっきりしています。

由嘉里はオタクではあっても引きこもり体質ではありません。むしろお節介焼きです。ライのゴミ屋敷をきれいに片付け、ライにタバコの吸い殻の処理を指示したりします。人間関係においても人見知りや引っ込み思案ではなく、むしろ他人に好かれるタイプであり(創作だからなんだけどね…)会話も積極的です。

由嘉里はライの知り合いとすぐに親しくなります。ホストのアサヒ(板垣李光人)、バー「寂寥」のオシン(渋川清彦)、そしてその常連客で小説家のユキ(蒼井優)です。

アサヒはホストである自分を虚飾にまみれていると表現し、俺の奥さんは俺をナンバーワンホストにするためにおっさんたちの愛人をやっている、奥さんはナンバーワンの俺が好きなんだとなんの衒いもなくさらりと話す人物です。

オシンとユキはともに人生を達観したような人物で由嘉里にアドバイスをしたりする立ち位置の存在です。

原作では由嘉里がそれまで縁のなかった歌舞伎町界隈の世界を知ることで自分自身を縛っていた社会規範から解き放たれていく印象が強かったのですが、映画ではそれはあまり感じられません。

おそらく由嘉里を演じている杉咲花さんの器用さが影響しているんでしょう。ライに対してであれ、アサヒに対してであれ、すぐに馴染んでしまい、違う世界に迷い込んでしまったという戸惑いのようなものがありません。それに MIM シーンが多いこともその一因だと思います。MIM のキャラクターの登場シーンもありますし、推し友とカラオケで騒ぐシーンもあります。

そうした MIM シーンが多いことに反比例して由嘉里の恋愛の扱いが奥の方へいっちゃっています。原作では合コン男からの LINE の文面の話や由嘉里の恋愛観や結婚観の話も重要だったように記憶しています。

そうした由嘉里の内面性が映画ではあまり感じられなくなっています。小説は由嘉里の一人称で書かれているわけですから仕方ないと言えば仕方ないことです。

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死にたみ半減プロジェクト…

由嘉里はアサヒに「ライさんの死にたみ半減プロジェクト」の話を持ちかけます。死ぬことが自然というライに生きる希望をもたせようとするプロジェクトです。アサヒは、ダサっとは言うものの由嘉里の大阪行きに付き合います。

由嘉里はライさんの死にたみは過去の恋愛によるものではないかとあれこれ調べ、その相手が鵠沼藤治という男であることを突き止めます。そして MIM の 2.5次元大阪公演の際に藤治を訪ねることにし、アサヒに同行させるのです。

藤治の実家を訪ねた二人は、藤治の母親から藤治が精神科に入院して会えないこと、藤治とライが付き合っていたこと、そして藤治は東京から帰って以降入退院を繰り返していることを知らされます。

由嘉里が東京へ戻りますとライがいなくなっています。書き置きには「来月末日にマンションを引き払うことにしたから退去に立ち会ってほしい。300万は置いておく」とあります。動揺している間もなく、アサヒがホストクラブの客の彼氏に刺されたと電話が入ります。病院に駆けつけますとオシンもユキを来ておりアサヒは危篤状態です。

映画ではライの失踪をはぐらかすようにアサヒの事件に焦点が移されています。原作でどうなっていたのか記憶は曖昧ですが、もう少し由嘉里にライの失踪に対する思いが語られていたんじゃないかと思います。

とにかく、よくわからないままに、突然、由嘉里が実家に MIM のグッズを取りに戻るシーンが入り、母親(筒井真理子)との会話シーンが入っていました。原作には母親の登場はなかったと思いますが、由嘉里は母親のお節介焼きが嫌で家を出たがっていたということにしたのかもしれません。

この映画、お節介を焼く側と焼かれる側という関係に焦点を当てようとしている節も感じられます。

とにかく、その帰り道、藤治から電話が入ります。由嘉里の「ライさんにとって恋愛は何だったと思うか」の問いに藤治は、

実験だったんじゃないかと思います。いろんなことを本気でやって、自分がこの世に存在する理由を見出そうとしていた。色々なことを試して、試すたびこの世に生きる価値がないことに気づいていく。そういういくつも経てきた実験のうちの一つだったんじゃないかと

と答えます。

そして、エンディングです。退院したアサヒを交え、由嘉里、オシン、ユキの4人で焼肉パーティーです。由嘉里はライの部屋を引き続き借りることにした、ライがいつ帰ってきてもいいようにと言っています。

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感想、考察:小説の映画化の難しさ…

原作のストーリーをかなり忠実に守ろうとした映画です。その点ではまったく違和感はありません。ところが、映画としてはまったくもって物足りなくなっています。

なぜでしょう。

これはもう表現形態の違いというしかないのですが、すでに書きましたように原作の地の文章は由嘉里の一人称で書かれており、由嘉里の内面性が溢れ出てくるような文章で、それが魅力の小説なんです。映画ではそれが消えちゃっているということだと思います。

たとえば由嘉里が初めてライの部屋に入るシーン、ゴミ屋敷です。小説は由嘉里視点でその様子が記述されていきます。そこには由嘉里の内面性が反映されます。ところが、映画ではゴミ屋敷であることはワンカットで表現できてしまいます。仮に由嘉里が驚きの声を上げたとしてもそれは映画を見る我々の代理みたいなもので、ゴミ屋敷に入れば誰だって驚くよね程度になってしまうということです。

さらにそのゴミ屋敷の中でライは「この世界から消えているのが私の自然の姿」なんて言うわけです。これ、普通でしたら、ヤバっ、逃げよとなりますよね(笑)。もちろん、小説、映画、どちらも由嘉里は逃げません。

小説ではもう少し二人のやり取りがあったように思います。つまり、言葉によってライの人物をかたちづくる過程とともに、並行して由嘉里がライに傾倒していく内面性があるわけですが、映画ではライを演じる南琴奈さんその人の存在感によって一瞬にしてライは出来上がってしまいます。

すでに少し書きましたが、ライは由嘉里の内面性における「死」の概念と考えられます。小説ではそれが人物そのものであっても実体がありませんので概念として存在できます。ところが映画はそういうわけにはいきません。

ライが南琴奈さんとして目の前に現れちゃうんです。

それがこの映画を物足りなく感じる理由だと思います。言い換えれば、もう少し違った描き方があったんじゃないかということで、さらに言えばこの原作は松居大悟監督向きではなかったんじゃないかと思います。