自閉スペクトラム症だとしたら、この描き方でいいのか?
1996年4月28日にオーストラリアのタスマニア島で起きた無差別殺人事件を犯人である27歳の青年に焦点をあわせて描いています。ポートアーサー事件といい、死者35人、負傷者15人の被害者を出した大事件なんですが、日本でどう報道されていたのかも含め記憶にありません。
エキセントリック過ぎないか
ジャスティン・カーゼル監督はこの映画に銃規制への思いを込めたと語っていますが、オーストラリアではどうなのかはわからないにしても、少なくとも日本社会の感覚でいけば、この映画の主要なテーマが銃規制にあると感じる人はいないのではないかと思います。
それよりも「ニトラム」ことマーティン・ブライアントその人に注視させられます。もちろんその視点がなくて映画は成り立たないわけですからそれはそれでいいのですが、それ以上にと言いますか、それ以降と言ったほうがいいかも知れませんが、この映画からは、マーティン・ブライアントという人物が本当にこのようであったかも知れないと感じることはできても、そこから先には思いがいかないのです。なぜこんなことが起きてしまったのかとか、こうしていればなにかが変わっていたかも知れないといった、本来こうした事件に対して考えなくてはいけないことに思いが向かないのです。
マーティンを演じたケイレブ・ランドリー・ジョーンズさんが2021年のカンヌで男優賞を受賞しています。俳優としての熱演は確かにそれに値しますし、それも相まってこの映画はマーティンという人物のエキセントリックさに目がいってしまいます。そして、結果としてだとは思いますが、映画はそれに頼っています。
マーティンの奇異にもうつる行動がなにゆえなのか、そして周りの人々はそれにどう対したのかということに思いがいかず、マーティンに釘付けになってしまうということです。
こうした無差別殺人事件を描いた映画で、それは本当にいいことなのかと疑問がわきます。つまるところ、この映画には、この事件がなぜ起きたのか、また答えは出ないにしてもそれに迫ろうとする問題意識があるのだろうかと考えてしまいます。
マーティン・ブライアント
ウィキペディアによれば、事件後にマーティンの精神鑑定をした司法精神科医イアン・ジョブリンさんは、マーティンはIQ66の11歳程度の知能であり、精神障害のボーダーライン上にいると鑑定しています。
In an examination after the massacre, forensic psychiatrist Ian Joblin found Bryant to be borderline mentally disabled with an I.Q. of 66, equivalent to an 11-year-old.
(ウィキペディア)
また、公判のための精神鑑定では、社会的および知的な障害があるとの判断と問題はあるが精神障害の兆候はないとの意見があったらしく、いずれにしても知的障害があったことは間違いなく、刑務所内の判断ではアスペルガー症候群と診断されたとあります。
Bryant was eventually diagnosed with Asperger syndrome while incarcerated at Risdon Prison.
(同上)
アスペルガー症候群は現在では「自閉スペクトラム症」という言葉を使うらしく、要は発達障害ということですが、そうしたマーティンをこの映画のような描き方をするのはよくないのではないかということです。
ヘレンという人物
ヘレンという人物が登場します。マーティンが芝刈りをさせてほしいと戸別訪問で訪れた時に知り合い、しばらくして一緒に暮らし始める女性です。実際にも Helen Mary Elizabeth Harvey という女性がいたということで、交通事故で亡くなったのも事実のようです。
その事故について映画は、マーティンがヘレンの握るハンドルをいたずら(に見える)で動かしたからだと描いていました。マーティンが語らない限り事実がどうであったかは誰にもわからないのですが、ウィキペディアには普段からマーティンにはそうした行動をすることがあったと書かれていますので、それを採用して映画にしているということでしょう。
ヘレンもかなりエキセントリックに描かれています。メイク、歯の矯正(?)、数匹の犬との暮らし、音楽、それらのことが奇異だということではなく、少なくとも、映画はヘレンがそのように見えるように意図して描いています。
映画の視点がそこにあるからでしょう。
社会という眼がなくていいのか?
この映画には、本当はあったであろうマーティンに対する社会の眼というものが感じられません。
マーティンの周りの人物は、母親、父親、ヘレン、ジェイミーくらいです。ジェイミーというのはサーファーで、唯一マーティンに対して悪意というものを感じさせる人物ですが、社会的な意識を感じさせるほどの一般性はなく、単に嫌な奴程度にしか描かれていません。
母親、父親ともに、ふたりの役割をどちらに振るかは別にしても、ついついやってしまいがちな対し方だと思います。父親はマーティンへの許容度が高く、母親は持て余して時につらく当たるようなところがあります。おそらく、当事者であればその両方を持ち合わせており、時にそのどちらかに振れることになるんだろうと思います。
いずれにしても、この両親にしてもすでに引退しているようでもあり、社会性は感じられません。
マーティンを追い詰めたのは何か?
この映画を見ていてもその緒も見つかりません。
銃がなければ起きなかったのか。そうとも言えません。
両親の育て方が違っていれば起きなかったのか。そうとも言えません。
マーティンを追い詰めたのは何か? この映画にその視点はあるのだろうか、と思います。