差別、偏見、欺瞞が渦巻く17分、「福田村事件」にはない現実感
「4ヶ月、3週と2日」「汚れなき祈り」「エリザのために」のクリスティアン・ムンジウ監督、2022年の最新作です。ムンジウ監督はこの映画の前にはジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ(ダルデンヌ兄弟)監督やミシェル・フランコ監督とともに「母の聖戦」のプロデューサーに名を連ねています。
偏見、差別、欺瞞が渦巻く17分…
クリスティアン・ムンジウ監督らしい映画と言えばいいのか、見ているときはわかりにくい映画だなあと思っても、見終えたときにはなぜだかとてもクリアになっている映画です。ただし、答えはありません。
映画が直接的に描いているのは、ルーマニア トランシルヴァニア地方の小さな村の出来事なんですが、実はそれが現在のヨーロッパ(つまりは EU…)、さらに言えば世界が抱える様々な問題のメタファーになっているということです。
この映画は、2020年にディトラウという村で実際に起きた「2020 Ditrău xenophobic incident(ディトラウ排外主義事件)」という事件をベースにしています。リンク先のウィキペディアを読みますと、パン工場の事件はかなり事実に近く描かれているようです。
ムンジウ監督は、そこにドイツに出稼ぎに行っていたマティアス(マリン・グリゴーレ)の物語を加えることで視点をヨーロッパ全体の問題に広げています。また、その逆の面として、マティアスを事件から一歩遠ざけた利己主義的な人物にすることで人間の愚かさや無力さを描き出しています。
マティアスは、ドイツの食肉工場に出稼ぎにいっていたのですが、差別用語(ジプシーと訳されていた…)を投げつけられて相手に殴りかかり、そのまま故郷に逃げ帰ってきています。単にそのことだけでキレたのではなく、日常的に差別があるということでしょうし、そこにはベースとして西欧対東欧という EU 内の解消されない地域内格差があることを示しています。
そして、そのマティアスが戻った故郷で起きる事件はレイシズムによるヘイトクライムとも言うべきもので、村の住民たちはパン工場で働くスリランカ人をその人種において排斥しようとするのです。
さらに、その抗議集会では当の住民たちの間に根深く横たわっているハンガリー系対ルーマニア系の人種間対立までが噴出してしまうのです。
この抗議集会のシーンの現実感がすごいんです。公式サイトには17分間とあるその間、ムンジウ監督は村の集会場に集まった住民たちのレイシズム発言を司会者側からの固定カメラで微動だにすることなく撮り続けます(見続けます…)。
偏見や差別が渦巻く17分です。そしてまた、そうした住民たちの発言も発言ですが、ここでは非難を浴びる工場経営者側の欺瞞も見えてきます。
クリスティアン・ムンジウ監督のうまさが光るシーンです。比べるのもなんですが「福田村事件」にはこういう現実感がありません。
17分間の背景にあるもの…
パン工場は ECC(欧州経済協力体、EUの構成は結構ややこしい…)の資金で建てられたものです。映画では、経営者と実務を担う地元の女性シーラ(エディット・スターテ)ふたりが経営者側の人物として登場します。
経営者は人手が足りないためシーラに募集するよう指示します。その際、賃金は記載せず残業代を2倍にすることだけ書くように指示します。低賃金を隠してということです。シーラは村にチラシを貼るなどして募集しますが応募がありません。
これは後の抗議集会での発言にもありますが、地元民の応募がないのは、賃金が低く、時間外手当が支払われないなど労働条件の悪さが原因で、そのために地元民はより稼げる西側へ出稼ぎにでなくてはいけなくなっているということです。EU 内では東欧が西欧の労働力供給を担うという構図があり、それがまた EU圏外からの移民への警戒感を生むという負の連鎖を生んでいます。
結局、経営者は海外からの労働者を雇用することにします。移民を雇用すれば何らかの恩恵が受けられる(EUからか…)ようなことが語られていました。
そして2人のスリランカ人がやってきます。シーラが住居などの世話をします。シーラはリベラリストであり、教会の楽団ではチェロを担当し、家では音楽を聴きワインを飲み思索にふけっているようなシーンがあり、多くの住民たちの保守性とは一線を画した存在として描かれます。
このシーラとマティアスには以前に恋人関係があったようで、マティアスは帰った早々シーラを訪ねますが家に入れてもらえないなど、事件とは別にマティアスの物語として同時進行していきます。これについては次の項目で書きますが、マティアスには妻も子どももいますし、また息子のルディがあることにショックをうけて話せなくなっていたり、父親が縊死自殺したりします。
こうした複数の物語を並行して描いていくこともムンジウ監督得意の手法で、映画を複雑化させ、テーマを重層化させるためのものと思われます。実際、これにより映画のトーンが重々しくなり、常になにかが起きそうな不穏な空気が漂っています。
移民排斥というレイシズムがなぜ起きるかには様々な要素が絡み合っているとは思いますが、集団というものの持つ排他性もひとつの要因かと思います。
抗議集会のシーンで、ああそうなのかとわかりますが、この村は保守的なカトリック教徒のハンガリー系の住民が多数を占めています(ルーマニア全体では少数…)。ミサのシーンでも住民たちが口々にスリランカ人に対するレイシズム発言を司祭にぶつけます。司祭は工場や村長(村かどうかはわからないが…)に掛け合ってみると言っています。
また、こうした経済的に恵まれたない環境下では若者たちの不満がレイシズムに向かうこともありえます。そうしたシーンも加えながら映画は17分間の抗議集会へと向かいます。
このカットのシーンが17分続きます。見入ってしまいますのでそんな時間感覚ではなくあっという間です。
住民たちは、スリランカ人のこねたパンは食べられないと声高に叫び、直接本人たちを知らないにもかかわらずムスリムと決めつけて危険だと恐怖感を煽り、一方では、彼らが自国にいる限りは何の偏見も持たない、とにかく出ていってくれと、まさしく典型的なヘイトスピーチを繰り返します。
それに対して工場経営者は、議論が成立する状態ではありませんのでやむを得ないとも言えますが、スリランカ人には手袋をさせるとか他の配置にかえるとかその場しのぎのことしか言えません。そのうち工場の労働環境が槍玉に挙げられたり、EUへの不満が爆発したり、挙げ句の果てには、住民たちの心の奥底に眠っていたハンガリー対ルーマニアの対立まで掘り起こされて掴みかからんばかりの状態になります。
実際にこうした場に立ち会ったことがありませんのでなんとも言えませんが、すごい現実感です。話し合うという言葉の無力さを感じます。ひとつのヘイトがさらなるヘイトを生み出すという集団主義的なものも感じます。きっとそれぞれがひとりであれば愚痴程度で終わっているんだろうとも思います。
で、この抗議集会がどうやって終わるかですが、これが本当にうまいもので、ここにマティウスの物語が絡んできて抗議集会の映画的な盛り上がりを引き継いだまま次のシーンに転換させていきます。
マティアスは何者か…
マティアスには妻と10歳くらいの息子ルディがいます。ただ、すでに妻には見限られているようです。多分シーラとの関係が直接的な原因なんでしょう。
映画冒頭はルディが学校へ行く途中の森で何かを見て逃げ帰るシーンで始まります。それ以後ルディは何も喋らなくなります。マティアスには理由はわからないにしても息子が弱虫に見えるようです。妻がルディを学校まで送っていくことを咎め、ひとりで行かせようと躍起になります。
マティアスはいわゆるマッチョイズムの男です。ルディに男らしくしろ、強くなければ生きていけないと言い立てます。妻や子どもの前では強さを演じている(演技しているという意味ではなく本人には自然なものとして…)がために、その裏返しとしてシーラには甘えるというパターンだと思います。
ドイツから逃げ帰り、妻のもとに帰るも歓迎されるわけではなく、ならばとシーラのもとに向かい、冷たくあしらわれてもじっと待ち続けたりするのもそうした人物像の描写だと思います。その後、ふたりは再び関係を持つことになりますが、シーラが愛している?と尋ねても、マティアスは決して愛していると言おうとはしません。男はそんなことは言うものじゃないと思っているのでしょう。
そのシーンでシーラが流していた曲はウォン・カーウァイ監督の「花様年華」でも使われていた「夢二のテーマ In The Mood For Love」ですね。
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抗議集会での行動も典型的で実に面白いです。マティアスにとって重要なことは村のことなどではなく、ましてやスリランカ人のことであるはずもなく、住民たちのヘイトスピーチもまるで耳に入りません。シーラの隣りに座り、しきりに手を握ってくれと懇願し続けるのです。
上の画像でシーラが手を隠すように腕を組み、その手をマティアスがシーラを見つめながら握っています。この行動自体はちょっと意味がわからない(笑)ことではありますが、おそらくマティアスには自分の居場所(愛してほしいということ…)こそが最も大切なことなんだろうと思います。発言しようと手を上げたわけでもないのに指名され、「みんなの言っていることがわからない」としどろもどろに漏らす言葉がおもしろくもあり、また意味深です。
そして、抗議集会はさらに混乱し、ハンガリー系住民とルーマニア系住民の乱闘騒ぎになろうかというその時、フレーム外から「マティアス!父親が首をつっている!」と声が入ります。
こういうところが本当にうまい監督です。当然これまでにも父親が倒れて検査を受けたりするシーンが何度か挿入されているわけですので唐突ではあってもまったく違和感がありません。
マティアスを先頭にして集会場の住民たちがぞろぞろと森に入っていきます。みな無言です。木にぶら下がった父親を見たマティアスは、父親を抱きかかえ、縄を切り、そっと下ろします。そして、肩に担ぎ歩き出そうとしたその時、ルディがマティアスの足にしがみつき「パパ、愛してる」と叫ぶのです。
瞬間、涙がこぼれてしまいました。
ルディが話せなくなっていたのは、通学途中の森の中で縊死死体を見たことからです。これは謎ということではなく、その時マティアスはドイツにいっていたのか理由は知らされていなかったということでしょう。映画のどのあたりであったかは記憶にありませんが、妻がルディを学校へ送っていくところをマティアスが待ち伏せしてやめさせようとした際に明らかにされています。それだけ妻からも信頼されていないマティアスということです。
熊、そして複雑な映画がもつ意味…
結局、このレイシズム事件は、スリランカ人に住まいを提供していた家族からもこれ以上は無理だとなり、いったんはシーラの家に移すも家に火を投げ込まれるまでにいたり、スリランカ人を村外に住まわせることになります。
映画はその後この事件がどうなったかについては何も描いていません。実際の「ディトラウ排外主義事件」でも、ウィキペディアを読む限り2ヶ月ほどで収束したとあり、移民の雇用はそのまま続いているようです。
この映画の基本的な軸はそのレイシズム事件ですが、映画全体はかなり複雑に構成されています。
たとえば、現実にもそうなんでしょうが、数種の言語が飛び交っています。と言いますか、英語以外は聞き取れませんのでわかりませんがそうらしいです。そのために字幕表記をルーマニア語は白、ハンガリー語は黄、その他はピンクと色分けして表現しています。それがわかりやすいかどうかには疑問はありますが他に方法があるかと言われればやむを得ないところでしょう。
マティアスはルーマニア語が主言語だとは思いますが人種としてはドイツ系ですし、シーラはハンガリー系で英語も話します。その他ドイツ語、フランス語が使われているようです。スリランカ人はシンハラ語で会話していますがシーラとは英語です。
こうしたことはトランシルヴァニアという地域がそれだけ歴史の荒波にさらされてきていることを示しているわけですし、それはまた複雑に絡み始めた現実社会の縮図のようにもみえてきます。盛んに語られる多様性という言葉では解決つかないものが存在しているということです。
ラストシーンがそれを象徴しているように思います。立ちすくむしかないということです。
マティアスが父親の棺を前に弔問を受けています(ということだと思う…)。そこに熊の生態調査に来ているフランス人のNGO職員(かははっきりしない…)がやってきてライフル銃を置いていきます。その銃はマティアスが危険だからとシーラに渡しておいたものです。マティアスの気持ちを下世話な言葉で言えば寝取られたということです。実際にその前のシーンとして描かれています。
マティアスはその銃を手にし、シーラのもとに向かい、銃口をシーラに向けます。シーラは許して!と外に逃げます。マティアスは引き金を引きます。暗闇には多数の熊が威嚇するように立ち上がっています。
マティアスが撃ったものは何なんでしょう?
わかりません。そもそも本当に熊かどうかもわかりません。映画の中にも住民たちが熊の着ぐるみを被って練り歩く祭りのシーンがありますし、ネットにはルーマニアの伝統的な祭りとして熊祭りの動画も上がっています。
また、なぜ熊の生態調査が行われているかも重要なことで、これもググればいろいろヒットしますし、抗議集会でも熊の保護を訴える NGO職員に対して過剰繁殖による被害に苦しむ住民が怒っていたように、ヒグマを希少動物として保護対象にしている EU に対する反発が繁殖地域の住民にあるということです。
と、まだまだいろいろな要素が盛り込まれているようにも感じられる「ヨーロッパ新世紀(R.M.N.)」です。
タイトルの R.M.N. は MRI のことだそうです。父親が倒れたときに MRI 検査を受けてしましたし、その画像をマティアスがじっと見るシーンがあります。
これも象徴的なシーンで、脳の断面をみても何もわかりません。