ドキュメンタリー作家らしくない、あまりにもつくりもの臭い…
ドキュメンタリー作家森達也監督の初めての劇映画、題材は1923年9月6日千葉県福田村、現在の野田市で起きた「福田村事件」です。
福田村事件とは…
こうした映画には珍しくメディアでもたくさん取り上げられていますので今さら事件について書くこともありませんが、概要だけ整理しますと、
1923年9月1日に関東大震災が起きます。その混乱に乗じて朝鮮人が暴動を起こしているとか井戸に毒を投げ入れたといったデマが流され、多数の朝鮮人が虐殺されています。推定犠牲者数は「数百名~約6000名(ウィキペディア)」と言われています。
その流言飛語が千葉県福田村にまで伝播し、在郷軍人や消防が中心となり自警団を結成します。そこへ香川から薬の行商団15名がやってきます。自警団は行商団を取り囲み、素性を問いただしたりしているうちに次第に興奮状態となり、15名のうち9名を殺害してしまいます。犠牲者は「妊婦や2歳、4歳、6歳の幼児をふくむ9名(ウィキペディア)」です。
また、そのウィキペディアによれば、後日、自警団の8名が検挙されて執行猶予付きの1名を除き7名が懲役3年から10年の実刑判決を受けますが、2年5ヶ月後に昭和天皇即位の恩赦で釈放されたとのことです。
事件そのものは残された資料にもとづき…
映画は、その事件そのものについては残されている資料にもとづいて作ろうとしているようです。
香川県立文書館に「関東大震災の際遭難した香川県民の手記」というものが残っています。
ここに紹介されている本文は一部のようですが、その解題によれば、行商団のひとりが中国人から安く買った黒紙の扇子を所持していたことが発端になったとあり、映画では行商団の親方(永山瑛太)が朝鮮人の少女にもらった扇子を出して扇ぐところに使われています。また、手記の著者が村の部長により助かったと書いていることは、映画では鑑札を調べにいっていた警察部長が間違いないと戻ってきて虐殺行為が止むことに使われています。ウィキペディアにある「銃声2発聞こえ」たということも使われていますし、茶屋と神社の2ヶ所に分かれて休んでいたというのも事実のようです。
といった感じで事件そのものの大枠は事実が守られた映画と思われます。
創作された人物たち…
映画ですから当然個々の人物は創作ですが、その軸として朝鮮から帰国した澤田智一(井浦新)と妻静子(田中麗奈)という人物を置いています。
智一は教師として(だと思う…)朝鮮に渡り、通訳としても働いていたらしく、軍部による朝鮮人虐殺に加担したという自責の念にとらわれて絶望し、故郷の福田村に帰って来た人物です。静子は朝鮮併合後に朝鮮で財を成した企業の重役の娘です。
映画中頃に、静子が智一の布団に入るも智一が背中を向け、出来ないんだとつぶやきます。後日、自らが虐殺に加担した行為を打ち明けます。この時静子がどう応えたか記憶にありませんが、いずれにしても離婚しましょと家を出ていきます。そして、船頭の倉蔵(東出昌大)を自ら誘いセックスします。
この智一静子のふたりに何をさせたかったんでしょうね。
確かに、行商団が自警団に囲まれている時、静子に、あなたはまた何もしないで見ているだけ?!と言わせ、ふたりで止めようと間に入ってはいましたが、長い時間を使ってふたりを描いてきた割には大した役割を持たせられなかったようです。
千葉日日新聞の記者に恩田楓(木竜麻生)がいます。この新聞は震災前から朝鮮人への差別を煽る記事を掲載しており、楓はそうした記事を書くように指示する上司に、それは真実ではないと抵抗します。また、震災時は取材のために東京にいたため朝鮮人や社会主義者の虐殺も見聞きして帰ってきます。そして、福田村事件に遭遇し、事実を書こうとしますがそれもかないません。
楓の東京での取材対象は、実在のプロレタリア演劇の劇作家であり社会主義者の平澤計七(カトウシンスケ)です。平澤は映画で描かれていたように、実際に9月3日に亀戸署に拘束され銃剣で刺殺されています。
他にデモクラシーを信奉する村長(豊原功補)とか、おそらく当時の農村の現実感を出そうとして創作したのではないかと思われる人物たち、貞次(柄本明)一家や戦争未亡人で倉蔵(東出昌大)と関係をもっている咲江(コムアイ)や、それに殺戮のきっかけをつくる女(夫が朝鮮人に虐殺されたと思い込まされている…)が創作されています。
あまりにもドラマ臭くないか…
あまりにもつくりもの臭くてびっくりしました。
もちろん、すでに書きましたように残された資料にもとづく事実は押さえられていると思いますし、実際、事件そのもののシーンは描かれているようなことだったかも知れません。
ただ、森達也監督は日本のドキュメンタリー作家を代表するような監督です。なのに、この映画のつくりもの臭さはドキュメンタリーの目指すものとは相反するもののように感じます。この映画は客観視点のつくりものです。智一静子夫婦や村長や楓という人物を置いているのがその典型です。仮にそれらを置くにしてもその人物の視点で物事を見ていくのがドキュメンタリーです。言うなればこの映画は両論併記です。もちろん虐殺を正当化する立場のことではなく、集団心理として虐殺行為を行ってしまうものとそれをよくないことだと思いながらも止められないものという意味です。
残念ながら、この映画はドキュメンタリー手法が生かされている感じはせず、いわゆるベタなドラマ作品になっています。問題は虐殺を止められる人物をこれだけ置いておきながら止められなかったことの問題点を浮き上がらせていないことです。
智一、静子、村長、倉蔵、咲江(コムアイ)、楓、マス(向里祐香)はじめ女性たち、映画のうち事件のシーンを除く2/3くらいはこうした自ら先頭に立って虐殺に関与するわけではなく、結果として加担してしまう人たちを描いてきたわけじゃないですか。つまり、こうした人たちは現在においてもマスな存在です。なぜ、そうした人たちがいながら、こうした虐殺行為が起きてしまうのかこそが問題であり、単に集団心理みたいな言葉で片付けてはいけない問題がそこにあるように思います。