サタデー・フィクション

モノクロ映像、動き回るカメラ、細かく切り刻まれた編集、さて…

2017年の「ブラインド・マッサージ」以降見ていないなあと思っていたロウ・イエ監督ですが、今年はじめに「シャドウプレイ完全版」という映画が公開されていることを知りませんでした。見逃しましたね。

ただその映画も2018年製作、そしてこの「サタデー・フィクション」も2019年製作となっています。IMDb にもそれ以降の情報がありませんが、どうしたんでしょう? なにか政治的なことなのか、新型コロナウイスルのせいなのか…。

サタデー・フィクション / 監督:ロウ・イエ

カメラの動きほど物語は動かず…

カメラワークと編集でごまかしたような映画ですね(ゴメン)。

モノクロで全編手持ちカメラが動き回る映画です。本当に動くわ動くわで、頭がクラクラしますし、仮に同じ画が使われていたとしても気がつきません。

まあ、ロウ・イエ監督にしてみればこの方法しかなかったのかも知れません。なにせ、時代設定が1941年という時代劇(歴史劇…)ですし、スパイアクションものという、おそらく初めて挑戦するジャンルじゃないかと思います。それに最初にこそっと言っておきますと(笑)シナリオがまずいです。

物語の構成は、太平洋戦争前夜の1941年12月の第一週の上海租界、日本軍の動向を探ろうとするフランス(イギリスも絡んでいるのかもしれない…)の謀略を軸に、それを実行するスパイであり俳優であるユー・ジン(コン・リー)の愛憎を恋人である演出家や元夫を絡めて描くというものです。

時は日本の真珠湾奇襲の7日前、12月1日です。すでに日中戦争は1937年から始まっていますので中国は戦時下ではありますが、フランスは次に日本がどう動くかを探ろうとしているという設定なんだろうと思います。ただ、この時すでにフランスはドイツに占領されてヴィシー政権になっていますし、日本もこの時すでにフランス領インドシナに進駐しています。フランスのスパイというのはちょっと違和感があります

とにかく、フランスの謀略は、日本から重要機密を持ってやってくる海軍少佐古谷(オダギリジョー)にユー・ジンを接触させて機密情報を盗もうという作戦です。ユー・ジンは古谷の亡くなった妻にそっくりということです。

作戦は、銃撃戦に古谷を巻き込んで狙撃し、看護を装って拠点としているホテルに連れ込み、催眠注射を打って朦朧とさせた上でユー・ジンが情報を聞き出すというものです。

なるほどとは思うものの、これが実際映画でやっていることは結構しょぼくて、特にユー・ジンが古谷から情報を聞き出すシーンなどは多少でもスパイものを見ていれば失笑がこぼれるような出来です。

あれなら別に妻とそっくり云々なんていらないんじゃないのとか、英語で話しかけたら古谷も妻とは思わないでしょうとか、そもそも日本語の台詞が全然ダメです。誰か日本人の脚本家をサポートにつければいいのにと思います。古谷もそうですが、中島歩さんがやっている特務機関の梶原にもも少し台詞をあげてくださいなんて思いながら見ていました。

深まらない人間関係…

で、もうひとつの俳優ユー・ジン(コン・リー)の愛憎がらみの物語、こちらも愛憎とは書いたもののほとんど何もありません。いや、あるんでしょうが、映画を見ていてもそれが感じられません。

ユー・ジンはサタデー・フィクションという舞台に出演するために上海にやって来たというのが表向きの理由です。また、日本軍に拘束されている(いた…?)元夫を救出するためでもあります(かどうかよくわからない…)。さらに、演出家とは恋人関係のようです。

という人間関係が同時に描かれていくのですが、どれもこれもはっきりせずまったく話が深まりません。サタデー・フィクションという舞台劇は労働運動を描いているようで、ユー・ジンと演出家かつ出演者であるタン・ナー(マーク・チャオ)がカフェのようなダンスホールのようなところで待ち合わせるそのシーンが何度も何度も演じられます。

おそらく、その舞台劇を現実の何かと重ね合わせるように描こうということだと思いますが、まったく噛み合っていません。

早い話シナリオがまずいということです。日本の公式サイトによれば、

原作は、ロウ・イエ監督とプロデューサーのマー・インリーの友人でもあるホン・インの小説『上海の死』で描かれる女スパイの物語を脚色し、その脚色した物語の中での演劇公演の物語の主役に横光利一の『上海』中国共産党の女性闘士・芳秋蘭(コン・リー)の設定を採用している。

サタデー・フィクション

ということらしいです。脚本はプロデューサーでもあるマー・インリーさんとなっています。

ユー・ジンの愛憎ものという意味で言えば、ラスト、ユー・ジンは古谷から情報は聞き出したもののスパイとしての上司であり養父であるヒューバート(パスカル・グレゴリー)を裏切って終わっています。この人物、フレデリック・ヒューバートという名ですからイギリス人ですかね。イギリス人がフランスのスパイであってもいいんですが気になります。

とにかくこれをラストシーンとして持ってくるのなら、ユー・ジンにはヒューバートに何らかの屈折した思いがあるわけですから、もう少し映画の中で深い関係を描いておかないとダメでしょう。それは元夫や演出家との関係にも同じことが言えます。

言葉で説明するだけではダメというのは映画では当たり前のことだと思います。

そして、結局俳優を生かせたのか…

映画のつくりとしては、動き回る手持ちカメラの映像を細かく切り刻んで編集するというのは何を狙ったんでしょう。シナリオの薄っぺらさを映像で補おうとしたとしか思えないですね。

でもむしろこうした物語であれば、俳優の存在感を生かしてじっくり撮ればそれなりに雰囲気は出てくるように思います。ユー・ジンの愛憎関係にしても、動き回るから何も感じられないのであって、モノクロですのでそれを生かしてじっくり俳優の表情を撮ればそれだけでも見えてくるものもあるはずです。

結局のところ、やたら動き回る画にもかかわらず、内容は淡白なものになってしまったという映画かと思います。

それに俳優が生きていません。

6年前とはいえ直近の映画として「ブラインド・マッサージ」を見ている私としてはとても残念な映画ではあります。