蟻の王

同性愛の悲恋物語ではなく、知性対反知性を描いているのではないか…

最初の人間」「ナポリの隣人」のジャンニ・アメリオ監督、2022年の映画です。

1960年半ばにイタリアであった同性愛に関する裁判を描いた映画です。同性愛が許されない時代の悲恋物語のようにもみえますが、映画の本当のテーマはそこではないかもしれません。

蟻の王 / 監督:ジャンニ・アメリオ

実際のブライバンティ事件は…

映画のベースになっているのは「ブライバンティ事件」という事件です。事件というよりも裁判となっているそのこと自体が事件と言ったほうがいいかも知れません。

裁判では実質的に同性愛が裁かれるわけですが、1960年当時、イタリアに同性愛が違法であるとの法律はありません。被告となっているアルド・ブライバンティの容疑は、当時のイタリアの刑法603条「Plagio」というもので、字幕では教唆罪と訳されていましたが、「人を精神的隷属状態におく罪」ということであり、むしろ「洗脳」といった意味のほうが近いかもしれません。ムッソリーニのファシスト党政権下で制定された法律であり、1981年には違憲とされ廃止されています。過去にこの法律が適用されて有罪判決が下されたことはなく、アルド・ブライバンティが唯一有罪判決をうけた人物ということになります。

映画でも語られていましたが、1960年当時であれ、同性愛者の存在は広く知られていたことであり、偏見を持つ人が多かったにしても法律で裁く対象ではなかったということです。ただ人々の意識としては、映画の中の青年エットレがそうであったように、実在の相手の青年ジョバンニは精神科医により強制的に電気ショック療法やインスリン処方をされていますので、いわゆるコンバージョン・セラピーという考え方があったのも事実です。

という時代背景で起きていることですので、アルド・ブライバンティの逮捕、起訴という事実には同性愛ということだけではない何かがあるのではないかと思います。あるいは共産党員だからという政治的弾圧ということも考えられますが、アルド・ブライバンティはファシストと戦ったパルチザンですので社会的には英雄的側面がありますし、映画の中のウニタ(共産党機関紙…)の記者にもそうしたところは感じられませんでしたので、映画にもその意図はなさそうです。

これは想像ですが、カトリックという宗教意識が社会に広く、そして強くあり、ある時何らかの理由により社会的偏見意識が高揚してしまったのではないかと思います。同じくカトリック教徒の多いフランスでは1982年まで同性愛は違法との法律があったくらいです。そうした時代の話です。

その偏見意識の高揚のひとつにはふたりの年齢差とジョバンニの家庭環境があるように思います。映画ではそれぞれの年齢が明確にされていませんので確認しますと、1962年、ふたりがローマで暮らし始めた時、アルド・ブライバンティは40歳、ジョバンニは23歳です。また、ジョバンニの家庭は保守的なゴリゴリのカトリック環境だったらしく、父親(映画では母親…)が強固なホモフォビア(想像です…)であったことから告訴にまでなったのかも知れません。

で、その年齢差ですが、これには映画の前半で描かれる学校のようなものの存在が関係しています。映画が描いている以前のアルド・ブライバンティは、戦時中は反ファシストのパルチザンに参加し2度逮捕されるなど政治活動に身を投じていたのですが、1947年に仲間たちとアーティストコミューン、若者たちのアート実験室を設立しています。

これが映画の中の学校のようなシーンとして描かれているもので、もともとアルド・ブライバンティは詩や哲学、演劇、そして生物、特に蟻の生態に洞察が深く、この実験室で自分本来の道に戻ったということじゃないかと思います。実際、ウィキペディアを読みますと有罪判決が言い渡されるまでのこの間、かなり精力的に様々な文化的活動をしています。

なお、この実験室は無料で学ぶことができ、ジョバンニ(映画ではエットレ)や兄のリカルド(実在かは不明…)はそこで学んでいた若者ということです。また、1962年にアルド・ブライバンティがローマに移ったのは、この実験室を置いていたファルネーゼ塔を借りる契約が更新されなかったためとの記載もあります(ソース未確認…)。

知性という権力…

ということで、映画ですが、前半ではそのアルド(ルイジ・ロ・カーショ)と実在ではジョバンニであるところのエットレ(レオナルド・マルテーゼ)の関係を中心に描き、後半では裁判の進行をウニタの記者エンニオ(エリオ・ジェルマーノ)とエンニオの従姉妹グラツィエラ(サラ・セラヨッコ)の視点で描いていきます。

この映画のアルドの人物像は知性の塊のような描き方です。アルドとエットレの会話には詩の引用が多用され、詩の朗読を交わしながら見つめ合う以上の愛情表現はありません。ラストシーン以外には抱擁のシーンもなかったように思います。

また、アルドが演劇の演出をするシーンでは、その言っているところがよくわからないくらい内面的な要求を学生たちにしていました。現代感覚で言いますとパワハラじゃないかと思うくらいの勢いでです。

兄リカルドへの罵倒(に近い感じ…)シーンも、演劇シーンと同じように学生に対して無茶苦茶言いますね…なんて思いながら見ていました。

今の日本ではこうした圧倒的な上下関係のある人間関係を見てますと某人物の性加害が頭に浮かんでしまったり、森の中で学生らしき若者が下半身を露出して、さあ、やれよなんていうシーンまでありますので、アルドと複数の学生に性的関係があるように見えてしまいますが、映画の意志はそこにはなく、 たとえば兄リカルドとの関係はブルジョワ意識が抜けないことに対するマルクス主義の認識についてであり、また実験室時代には未成年であったエットレとの関係も詩で交わす愛情表現以上のものはないと思われます。

ただやはり、この映画のアルドは、演じるルイジ・ロ・カーショさんの抑制されたストイックな演技もあり、かなり権力的に感じられます。知を求める若者であれば、その前に出れば何も言えなくなり、一瞬にして心酔してしまい、まさしくアルドを「蟻の王」にも感じられてしまいそうです。

アルドがエットレに言います。アリが群れるのは迷子にならないようにだと。要は私についてきなさいという意味でしょう。

ジャンニ・アメリオ監督の意識としては、アルドが「蟻の王」だとして、そのことを否定的は捉えていないようで、そこにはジャンニ・アメリオ監督の知性主義というものが強く感じられます。過去の2作をみてもそれを感じます。

この映画のアルドにはジャンニ・アメリオ監督が模範とする人間像が反映しているように思います。また、どう映画に影響しているかはわかりませんが、監督自身も同性愛者であることを公表しています。

反知性という権力…

後半は裁判シーンとウニタの記者エンニオとその従姉妹グラツィエラに視点が移ります。もちろん現実にウニタの記者がいたにしても映画のふたりは映画の創作でしょう。

映画冒頭はカフェ(バール)のシーンから始まり、カメラがウエートレス(カメリエーラと言うらしい…)を追っかけていきますので重要な人物かと思いましたらその先に客としてエンニオが座っていました。ただそれがウニタの記者エンニオだとわかるのも後半に入ってからです。

あまりいい導入じゃないですね。それに次のカットがアルドとエットレのシーンですから混乱してしまいます。

とにかく、アルドが逮捕され裁判になり、エンニオが記事を担当することになります。しかし、エンニオがアルド擁護の記事を書くに従い風向きが変わり、最後には担当を外され、記者をやめることになります。その途中では、エンニオは編集長の無関心さに仲間(共産党員という意味…)を助けなくてどうすると怒っています。

ただこのエンニオの描き方については、イタリア共産党が公式に反論しているそうです。共産党は判決には反対の立場をとっており、実際の記者も社のバックアップを受けて取材しており、ましてや退職していないということです。

裁判でのアルドは裁判官に背を向けるようにして座り、当初は何も語りません。理由について、私を裁く法律などないといったようなことをエンニオに言っていましたが、知性を重んじるアルドにとって、ことさら性的なことを取り上げられて好奇の眼にさらされるのは耐え難い屈辱ということだと思います。

実際の「ブライバンティ事件」でも知識人や文化人を中心に裁判に対してかなりの反対運動が巻き起きたようです。映画ではエンリオの従姉妹グラツィエラがその役目を担っています。仲間を集め裁判所の前などで集会を開いてシュプレヒコールを上げています。

裁判の最後にはエットレが証人として法廷に立ち、きっぱりと「アルドとの関係はすべて自分の意志だった」と証言します。

しかし、判決は懲役9年の刑が言い渡され、その後控訴審では懲役4年となり、最高裁により確定した後、パルチザンとしての功績により恩赦され、最終的に2年間服役して解放されます。

まあ、そもそも人の心の中など他人に裁けるわけはなく、いうなればこの裁判は宗教裁判みたいなもので、マジョリティがマイノリティを排除するという以上の意味はないと思います。また、それは知性主義のアルド、あるいはジャンニ・アメリオ監督にしてみれば反知性主義の権力にしか見えないということでしょう。

イタリア映画らしく抒情的に…

で、エンディングはアルドとエットレが再会します。

アルドの母親が亡くなります。生前はアルドの理解者として世間に対しても気丈に振る舞っていた母親です。正確にはどういうことかはわかりませんが、アルドが警官(のような行政職員…)に付き添われて葬儀に立ち会い、その後、実験室の学生であった演劇の主役を演じていた女性に会い、その女性が、社会的要請に屈したという意味だと思いますが、家庭に入ることを選択した姿を見、その後、エットレと再会します。

エットレは治療と称した電気ショックなどで精神を破壊されているようでもありますが、もともと絵を書くことが好きだと言っていたように、田園の中の野外劇場で演じられるオペラ「アイーダ」の背景画を描いています。

「アイーダ」第四幕二場ラダメスとアイーダの甘美な二重唱が流れる中、アルドとエットレは再会し熱い抱擁を交わします。

ラダメスが「Ed io t’uccido per averti amata!(あなたを愛するために私はあなたを殺します!)」と歌っています。

※スマートフォンの場合は2度押しが必要です

という、同性愛の悲恋物語というよりは、知性対反知性の争いにも見える映画でした。ただ、個人的にはそのどちらも必然的に権力構造を持ってしまうもののように思えます。