九月と七月の姉妹

サイモンセズよりも「女」であることの厄介さが強く意識されているように感じます…

俳優でもあるアリアン・ラベド監督の長編デビュー作です。出演作にヨルゴス・ランティモス監督の「ロブスター」やリチャード・リンクレイター監督「ビフォア・ミッドナイト」があるようですが記憶には残っていません。

この映画はなんとなく怖そうな映画ですね。

九月と七月の姉妹 / 監督:アリアン・ラベド

サイモン・セズはあまり感じられない…

キービジュアルが「シャイニング」の双子の少女みたいですので怖そうと思ったのですが、怖いにしても違った意味の考えさせられる怖さでした。

この映画の姉妹セプテンバーとジュライは双子ではなく10ヶ月違いで生まれた姉妹です。9月生まれと翌年の6月生まれということでしょう。ワンカットだけ幼い時の画がありますが映画は15歳の姉妹の話です。

写真家である母親が姉妹に同じ服を着せてポーズをさせて写真を撮るわけですから「シャイニング」は意識されているでしょうし、私にはわかりませんでしたが他にもオマージュと言っていいのかパクリと言っていいのか(ゴメン…)、そんな印象の映像が続く映画です。

始まってしばらくは何をやろうとしているのかがわからなく感じます。

意図的に流れをぶった切っていると感じるシーン構成です。前半と後半で設定の場所も変わり、周りの人物も変る話ですが、その前半はセプテンバー(パスカル・カン)とジュライ(ミア・サリア)の姉妹と母親シーラ(ラキー・タクラー)のかなり奇妙な行動が脈絡なく断片的に続くのです。

一定程度の流れはありますが、シーン構成としてはこの3人家族の奇妙な関係を延々と見せているだけです。特に前半はそれが顕著で何かことが起きてもその後をすっぱりカットして次のエピソードにいくみたいな感じです。

日本の公式サイトや映画.com にある姉妹の支配関係もそう明確なものには感じられず、特に前半は苛めにあっているジュライをセプテンバーが必死に守ろうとしているように見えます。

「女」が強く意識されている…

というシーンが続く中でふっと気になったのが、母親シーラと姉妹のどちらかがパンツ一丁の後ろ姿で踊るシーンがあり、その時シーラのパンツの中にはナプキンが入っていることをはっきりと見せているのです。

これはひとつのメッセージだなと思います。

性別という意味の「sex」、「女」であることが強く意識されているように感じます。そもそもこの姉妹は10ヶ月違いの姉妹です。出産後の生理は授乳の有無によって差があるらしくひと月から1年と個人によって違うようです。

ですので10ヶ月差の姉妹というのもあり得るということになり、その場合出産してすぐに妊娠したということになります。映画の中でシーラは夫のことをどうしようもないやつとか暴力を匂わせるようなことを言っています。

映画全体を通して姉妹も母親も下半身(足…)を露出したシーンが多いです。下に何を穿いている設定なのかはわかりませんが、オーバーサイズのTシャツだけみたいな感じのシーンが多いです。

脇毛もかなり強調して毛深くして見せています。それもいじめられる一つの原因と見せようとしているようです。映画前半ではジュライが同級生たちにいじめられるシーンが多くあり、毛深いとか、インド系であることとかの身体的な揶揄が使われています。

姉妹がドラッグストアから香水を盗んだり、その後脇毛を剃ったり、母親のパーティーのシーンでしたか、ジュライがパウダールームで客の女性から口紅を塗ってもらい微笑むシーンもあります。

この映画はそうした女性の身体的なことや異性から向けられる性的視線、そしてそうしたことを意識せざるを得ない女性性というものを強く前面に出しています。

そして前半の最後に決定的なことが起きます。ジュライが男子生徒に騙されて自分の裸(か下着姿…)の画像を送ってしまうのです。

セプテンバーはジュライとともに、騙した男子生徒たち(車椅子の女子生徒も入っている…)に対峙します。

消えたセプテンバー…

ここまでが前半、その最後の対峙場面ではセプテンバーがナイフを出していたと思います。

そして長めの黒味が入ります。ここで何かが起きたということです。それが何かはラスト近くでわかります。と言いますか、多分そうだろうと想像できます。

後半は場所が変わり、母親は姉妹を連れて自分の母親(不在…)の家に引っ越してきます。

後半のポイントはふたつ、ひとつは母親シーラがかなり大胆な振る舞いをすること、パブへ行き、話しかけてきた男性を家につれて帰りセックスをすることです。ただ、このセックスシーンもかなり奇妙で、男性は女性にオーラルセックスをし、その後女性が男性を手でいかせるのです。〇〇が飛んでいました。それにその時、あれはシーラの内なる声なんでしょうか、行為の説明がナレーションのように入っていました。姉妹がドアの隙間から覗いています。

これで何を見せようとしているのかはアリアン・ラベド監督に聞かないとわからないですが、いずれにしても、いわゆる男性目線のセックスシーンではないことは明らかです。

そしてもうひとつのポイント、姉妹が浜辺で地元の若者から夜に焚き火パーティーをするから来ないかとナンパされます。参加した姉妹はお酒を飲み、そしてジュライは誘ってきた若者とキスをし、その場でセックスをします。ジュライが上になっていました。

記憶は曖昧ですが、このあたりからセプテンバーがいなくなっていたように思います。

で、翌日です。その若者がチョコレートケーキを持って訪ねてきます。若者が自分は初めてだったし君も初めてだったねと言いますとジュライが突如、私じゃない、あれはセプテンバーだったと怒り出し、怪訝な顔の若者に、姉は2階にいると興奮して、ミミズを飼っている鉢(説明は省略…)を若者に投げつけます。

すでにセプテンバーはいないということです。ここであったかどうかは記憶がありませんが、前半最後の対峙のシーンがフラッシュバックされ、その時雷が落ちていたのです。一瞬でしたのではっきりしませんが、多分セプテンバーのナイフに落ちたということでしょう。あるいは女性との車椅子にもかな?

解離性同一性障害ということも…

この映画、流れで記憶できる映画ではありませんので前後は曖昧ですが、前半にあった、布で囲われたソファーの上で母親が姉妹を抱きしめるシーンがフラッシュバックされ、この後半ではセプテンバーはいなくシーラとジュライだけのシーンになっています。

そしてラストシーン、ジュライが海辺の崖に向かいます。かなり引いたカットからズームアップしていきジュライの顔がわかるようになった時、ふっとセプテンバーの影のような姿がフレームインしてきます。

すでにいないのか、最初からいないのか、セプテンバー、あるいはもうひとりの自分に誘われて飛び降りたかも知れないという映画です。

この映画には原作があります。イギリスの作家デイジー・ジョンソン著『九月と七月の姉妹』です。

原書のタイトルは『Sisters』です。

原書の装丁を見ますと姉妹は解離性同一性障害、いわゆる二重人格かも知れないですね。

映画でも後半になりますとセプテンバーの影は薄いですし、前半の生徒たちがいじめるシーンにしてもターゲットはジュライひとりであり、セプテンバーは無視されているような描き方だったように思います。

いずれにしても、私はセプテンバーがジュライを支配しているといった関係が重要視されている映画ではなく、セプテンバーとジュライ姉妹、あるいはひとりかもしれませんが、大人に成長していく過程で社会から「女」と見られるようになっていく時に起きる精神的混乱のようなものを感じます。また、母親シーラにしてもそうした過程を経てきて整理できないものを抱えている存在に感じます。