藤井道人監督の映画はもういいと言いながら見てしまった、その結果は…
今朝、たまたまテレビでこの「正体」の舞台挨拶の様子を見たためにポチッとしてしまいました。吉岡里帆さんが餃子をつくるシーンで横浜流星さんは下手くそだったと言っていたのがツボにはまったのかもしれません(笑)。
原作を読んでいないのに適当なことを…
監督は藤井道人さんでしたか…。この監督の映画はもういいかなと言いつつ前回見たのは何だったか、ああ、「最後まで行く」でした。読み返してみましたら、自分が恥ずかしくなるくらいボロクソに書いています(ゴメン…)。
ゴメンと言いつつこの映画もいいことは書けそうもありませんので、その手のことが嫌な方はここで退出していただいたほうがいいかもしれません。
原作は染井為人さんの『正体』、脚本は小寺和久さんと藤井道人監督の連名になっています。
まず、見た直後に感じたことを書きますと、映画のテイストがどっちつかずで中途半端です。どっちつかずというのは、とても殺人犯とは思えない男の「正体」は一体なんなのかに迫っていくサスペンスものなのか、冤罪をテーマとした社会派ドラマなのかということです。
原作を読んでいませんので想像ですが、原作は鏑木慶一が逃亡先で出会う人たちから見た鏑木像が書かれているんじゃないでしょうか。各パートごとに出会う人たち、この映画で言えば、工事現場の野々村和也、出版社の安藤沙耶香、介護施設の酒井舞の3人が語る一人称小説かもしれません。
つまり、3人がたまたま出会った男と親しくなるものの、ある時殺人犯だと知らされて、あるいはそうだと知って、そんなはずはないと混乱し、あの男の正体は一体何なのか、殺人犯ということがその正体なのかと困惑する話ではないかということです。
思い返してみれば、3人には鏑木がどう見えていたかというシーンがまったくありません。ただいい人だったと言っているだけで、一貫して鏑木は鏑木です。人物像が3パートみな同じです。
これがこの映画がつまらない理由の一番だと思います。
まあこうした内容に対して映像作品の難しさもあるかもしれません。どうみても3つのシークエンスすべてであの男は横浜流星さんですし、言っちゃなんですが、変装が下手過ぎます(笑)。これは演出の問題ですのでもう少しなにか考えないと、え? それじゃすぐにバレるだろうと映画に入れません。
ひょっとして原作では変装自体にあまりこだわっていないのかもしれません。つまり、人間、目の前に殺人罪の逃亡犯がいるなんて思いませんから、その人物が殺人犯のイメージからかけ離れていれば、自然に出会い、自然な付き合いであれば疑いなど持たないこともあり得ます。
仮にそうだとしますと、これは小説だからできることですので、映画化するのであれば何かそれに代わるものを考えなくちゃいけないということでしょう。
原作を読んでもいないのにまったくの想像でいろいろ書いてしまいました(ゴメン…)。
鏑木の逃亡の目的はなに?で貫けばいいのに…
死刑囚の鏑木慶一(横浜流星)が自ら喉を突き刺して吐血し、拘置所から病院に緊急搬送されます。そして搬送中にすきをねらって逃走します。
鏑木は一家殺人事件の現場に凶器を持って立ちすくんでいたためにその場で逮捕され、唯一の生き残りであるその家の女性(映画の中でどういう関係なのか言っていた?…)の証言により有罪となり死刑が言い渡されたということです。
この過去のシーンは断片的に挿入されますが詳細はまったく触れられません。惨殺された3人(かな…)が血まみれで倒れているカットが繰り返されるだけです。これも映画に説得力が生まれないことの大きな理由ですが、たとえ鏑木がその場にいたとしても、他に犯人がいるとするならばいろんな証拠も残されているだろうし、動機だって争点になるわけですから、いくらなんでも警察を無能扱いしすぎです。
それをフォローするために、映画は警察幹部の謀略を持ち出しています。刑事の又貫(山田孝之)の上司(松重豊)が少年法改正のために好都合だから鏑木犯人説でいくと又貫に指示するシーンを入れています。これって原作にもあるんですかね。あるとしたら、いくらなんでももう少し説得力のある記述になっているとは思います。
藤井道人監督のダメなところはこういうところです。「新聞記者」でもそうですが、善悪の考え方が単純なんです。悪いやつがいるから悪いことが起きるという物語のつくり方をするのです。人間をもう少し深く描かないと映画がつまらないです。
とにかく、逃走した鏑木は変装して工事現場の日雇い労働者として働き、同僚の野々村和也(森本慎太郎)が事故でケガをした際に雇い主と交渉して2万円を取ってきます。
あの雇い主の人物像も単純過ぎます。実際にああした人物がいるいないではなく、あんな人物を出してあんなシーンで物語をつくれば映画が薄っぺらくなります。
次は、鏑木がフリーランスのライターとして出版社の安藤沙耶香(吉岡里帆)のもとで働いています。どうやって大阪(工事現場…)から逃げて東京まで来たのかとか、どうやって安藤に雇われるようになったのかとか、そういうツッコミ無用の映画です。本当はダメなんですけどね。
で、鏑木は安藤に誘われて居酒屋で飲み、酔いつぶれて安藤の住まいに同居することなります。あり得んだろうというのもツッコミ無用です。鏑木は万能ですので、工事現場では労働基準法に詳しいところを見せ、ここではライターとしても有能ですし、料理も得意で、ここで例の餃子のシーンがあったらしいのですがほとんどカットされたのでしょう(多分…)
そして、最後は長野だったかの介護施設の介護士として働いています。
この映画がどこか軸がなく散漫になっている理由のひとつが鏑木の逃亡の理由は何なのかということを大きく扱えていないからです。
長野の介護施設には事件の唯一の生き残りの女性が入所しているのです。その女性は事件によるPTSDにより事件の記憶が曖昧になっており、又貫の誘導尋問により鏑木が犯人であると証言したということになっています。鏑木が拘置所から逃走したのはその女性を探し出して真実を証言してもらうためです。
逃亡先で出会う人たちの鏑木像がまったく違うことと、なぜ鏑木は逃走したのかを映画の大きな軸としてサスペンスものにするのもひとつの方法だったということです。
痴漢の冤罪が鏑木の冤罪の補強になっていないし…
かなり早い段階で痴漢容疑の男(この時点では誰だかわからない…)の裁判のシーンがあります。そのとき傍聴していたのが安藤沙耶香(吉岡里帆)であり、その男とふたりで歩いているときに週刊誌記者に追いかけられタクシーで逃げるシーンがあります。
なにこれ? 男は誰? と思いましたら、後でわかったことに、男は安藤の父親(田中哲司)であり、本人は冤罪だと主張しているとの設定でした。
この映画が社会派ドラマにしようとの気配があるというのはこのことで、もちろん鏑木は冤罪なんですが、それを補強するためなんですかね、なんだか取ってつけたように感じます。これを持ち出すのであればちゃんと詳細を含めて最後まで描かないとダメでしょう。
で、鏑木の物語に戻りますと、鏑木は入所している真実を知る証人(原日出子)にその日のことを思い出してくれと必死になっています。しかし、その介護施設の職員酒井舞(山田杏奈)と親しくなったことから鏑木が写った動画をネットに流され(そんなことしないだろう…ん?やる人もいるか…)警察に包囲されます。
そして対峙する鏑木と又貫、鏑木はもう一人の刑事に撃たれます(あの状態では撃たないだろう…ん?撃つ奴もいるか…)。
死んでジ・エンドかと思いましたら、そうではなく再び収監され、しかし、真実を知る証人の証言や同じ手口の一家殺人事件の犯人が鏑木事件にも関与していることをほのめかしていることから再審が決定し、無罪が言い渡されます。
ダイジェスト版のようで散漫…
大筋ではという映画なんですが、ここには書いていないことがいっぱいあります。問題はそれら書いていないことがなくても物語自体に大きな影響がないことです。つまり、様々に盛り込まれていることがひとつの大きな物語に絡んでこずにみな宙ぶらりんになっているのです。
工事現場での出来事も鏑木の人物像を厚くすることに寄与していませんし、安藤との同居生活もただ一緒に料理をしているだけでふたりの関係を描くことになっていませんし、介護施設の酒井の家族のシーンも2シーン入れているにも関わらず結局あってもなくてもいいようなシーンでしかありません。
シナリオのせいなのか、あるいは監督の演出のせいなのか、いずれにしてもあまり出来のよくない映画ということです。
もうひとつ、俳優を生かせていないです。