逃避行ものなのに「僕たちには明日は続く」
男女の逃避行ものと言えば「俺たちに明日はない」に勝るものはありません。
と、言い切ることに異論のある方はいないと思いますが(笑)、果たして「ソワレ」は現代の「俺たちに明日はない」になったのでしょうか。
んー、ラスト、そこへ行くんかい…(涙)。
まあオチのつけかたが現代的といえば現代的で、でもあれですと逃避行ものじゃなくなっちゃいますね。それも現代的といえば現代的、きっと翔太はタカラの出所を待つのでしょう。
翔太(村上虹郎)とタカラ(芋生悠)が逃避行に出るまでがかなりかったるいですしシーンの構成も説明的です。
翔太は和歌山から東京へ出て劇団に所属して俳優を目指しています。劇団そのものの位置づけやその中の翔太の立ち位置がほとんど描かれておらず、1シーンあった稽古の場面ではそのやる気の無さに演出から無茶苦茶ダメ出しを食らっていました。
翔太はオレオレ詐欺の受け子をやって金を稼いでいます。つまり、俳優としてうまくいっていないということなんですが、この前段の翔太の人物描写が物足りないです。
後に起きるタカラとの逃避行は発作的なものです。発作的ということは瞬間的に爆発的なエネルギーが出るとか火がつくとか、それまでに何かが溜まっていなければその行動にリアリティが生まれません。
せっかく前段にかなりの時間を使っているわけですからもっと翔太の人物造形をしっかりすべきです。
劇団が和歌山の介護老人ホームに慰問に行きます。そこで介護士のタカラと出会うことになるのですが、この介護施設の様子の描写にもかなり時間が取られています。
この映画がクラウドファンディングを活用しているからなんでしょうが、かなり浮いて感じられます。せっかくタカラを介護士の設定にしているのですからなにか方法はなかったのでしょうか。
ああ、いい例を思い出しました。
「夕陽のあと」という越川道夫監督の映画で、それは鹿児島県長島町の町おこし映画でもあったんですが、地方の漁港のシーンで山田真歩さんが魚の水揚げをしたりしてエキストラの地元の人たちの中に無茶苦茶うまく溶け込んでいたんです。それだけではなく、溶け込みつつドラマの緊張感をとてもうまく出していました。
まあ余計なことですが、前段のかったるさというのはこういうことから感じられるということです。
そうした介護施設の情景がいくつか描かれ、ある日、村の祭りに行くために翔太がタカラを迎えに行きますと、タカラが父親(義父?)に暴行されています。このこと自体もかなり唐突なうえに、それを見た翔太は即座に何をやっているんだ!と父親を引き剥がしにかかりもみ合いになります。
タカラを訪ねるのは映画としては初めてのシーンですが、以前にも来ているとしか考えられない行動ですし、その後もそれが暴行であると即座にわかったような行動をとっています。
結局、ふたりを逃避行させるための段取りでここまできている映画ということです。
揉み合ううちにタカラが父親を裁ちばさみで刺します。翔太はまるで逃げることを前提にしていたかのようにタカラを連れて逃げます。
このシーンの最初のカット、机の上にミシンが置かれており、ん? と思ったのですが裁ちばさみのためですね(涙)。
これ以降はふたりの逃避行が描かれます。警察が追うシーンが2度ほど、劇団や介護施設の人たちのシーンはありません。
そのせいというわけでもありませんが、逃避行に緊迫感はまったくありません。これがいいのか悪いのか、一体何から逃げているのか、映画なんですから単に警察から逃げているだけに見えるようでは映画になりません。
そうして始まった、ひと夏のひと旅。青年はその時間を「かくれんぼ」と呼び、女性は「かけおち」と称した。
公式サイトからの引用ですが、これならこれでそのトーンの逃避行になっていればいいわけで、何も逃避行が刹那的や絶望的である必要もありませんが、ただ、ふたりの描き方に新鮮さはありません。
走って逃げるシーン、逃げた先で職を探し働くシーン、海辺で佇むシーン、空き家に忍び込み安らぐシーンなどなど、それぞれの画にはさほど強い意志は感じられず抒情性に頼っているようにみえます。
そもそもふたりに相手を知りたい欲求とか、何をしようとしているのかわからない不安とか、ほとんど心の交流がありません。思い返してみれば会話さえ、会話を意味することと同等の画もありません。
ただふたりの逃避行の情景が曖昧なまま提示されるだけです。
そしてふたりは捕まります。タカラは翔太に向かい頬に手を当てる特徴的な仕草をして連行されていきます。
その後タカラは登場しませんが、翔太は精肉工場で働きながら俳優の道を目指しています。劇団の稽古の1シーンがあり、確かに逃避行前のやる気のなさからは変わっています。
シーン変わり、自宅で高校時代に撮った映画を見る翔太、捕まる時にタカラが頬に手を当ててしていた仕草はその映画の中で翔太がやっていた仕草だったのです。
つまり、翔太とタカラは同級生で、すでにその時タカラは父親からの暴行をうけており、その相談(なのか、よくわからなかった)をするも聞き入れてもらえなかった、その帰り際に教室で撮影している翔太を見たというオチで映画を終えていました。
結論としてはつくられた物語過ぎます。
逃避行ものとしては決定的なことですが、翔太、タカラともに遠くを見ていません。それを現代的と言えば現代的な逃避行ものの映画でした。
なおタイトルの「ソワレ」は演劇などの夜公演をさし、昼公演のマチネに対する言葉です。だから劇団かとは思いますが、あまり生きていなかったです。