子育て映画ではなく、家族主義的感動(させたい)映画だった
山田孝之さんがシングルファーザー?
ってことで見てきました。
始まってしばらくは、少しふっくらした印象もあり、へぇー、こういう役もいけるんだと見ていたんですが、映画が進むにしたがって、でも待てよ、この俳優さん、風変わりな役柄でもバタバタしないし崩れないタイプだよなあということに気づき、その点ではこの映画の武田健一(山田孝之)も眼力と感情を表に出さない演技で役作りしている点においては、演技スタイル自体は変わっていないのではないかと思います。
映画はシングルファーザーとなった健一の子育てを追ってはいますが、その時々に発生する問題に対する健一の奮闘ぶりを描いているわけではありません。健一がバタバタしたり右往左往するようなシーンはありません。健一がとる解決方法は基本的には時間薬です。
武田健一(山田孝之)は娘美紀が1歳半の時に妻朋子を亡くします。そして1年後、シングルファーザーとして子育てしながら美紀とともに人生を歩む決意をします。美紀2歳半から小学校を卒業するまでの10年間が描かれます。
映画は章立てになっており、美紀2歳半の保育園時代、小学校低学年時代、小学校高学年時代が数章に分かれて描かれています。美紀はその時代に合わせて3人の子役が演じています。この子役の3人が生き生きと美紀を演じていることが山田孝之さんとのバランスの良さもあって映画をもたせているとも言えます。
カレンダーにまつわる妻朋子の痕跡がうまく使われています。
2009年、日付は忘れましたが「昇進祝い!!」(だったと思う)の赤いエクスクラメーションマークがカレンダーから壁をつたい下まで伸びています。後のフラッシュバックシーンで妻の朋子がその文字をカレンダーに書き入れながら崩れ落ちたことが示されます。
そして、1年後、健一がカレンダーに「再出発」と書き入れるところから映画は始まります。壁に残された赤いラインは残されたままです。1年経ち、やっと妻の死を受け入れ、その死を忘れることなく共に生きていこうという意志の現れでしょう。
1歳半の美紀に朋子の記憶があるわけではないでしょうが、時に美紀はその赤いラインをなぞり母親と心の交流をするように使われます。
ラストもそのシーンで終えていたと思います。
ということで映画としてはうまくまとめられていますが、章立てということもあり、その時々のエピソードを語っているに過ぎず、あらすじ的なつくりにもみえほとんど子育てというものに迫っている映画ではありません。
第一章では美紀の保育園でのエピソードが語られます。妻の死後1年、おそらく健一は育休をとって美紀の子育てをしながら先々を考えてきたのでしょう。妻の両親の引き取ってもいいとの申し出を断り、営業から内勤に変えてもらいフレックスタイムを利用して自分の手で美紀を育てる道を選びます。
とくれば、働きながらの子育ての大変さが描かれるのかと想像しますが、そうではなくこの章のエピソードは美紀の異変が母親不在によるものだという話です。
保育士さんは自分も母子家庭で育ったと言っていたと思いますが、美紀の置かれている環境をよく理解してくれます。健一が仕事で遅くなったときには美紀をしっかり抱きしめて待っていてくれ、健一にもしっかり抱きしめてあげてくださいね、この子は母親に抱きしめられたいと思っていますなどと言ったりします。
その美紀に異変が起きます。保育園へ連れて行くも泣き出して嫌がるようになります。原因はその保育士さんが忙しさにかまけて美紀の母親代わりになれなくなったということです(こんな単純なことでしたっけ?)。
第二章では、小学生になった美紀が母の日に母親の似顔絵を書くことになり、これまた母親不在にまつわるエピソードです。
学校でお母さんは何をしているかとの質問に美紀は毎日家にいますと答えます。先生は美紀が嘘をついていると心配しますが、実は美紀にとっては母親は毎日家にいるのです。常に母親の写真は置いてありますし、壁の赤いラインもあります。
家で母親の似顔絵を書く美紀が動いているお母さんを知らないから描けないなあとぽつりともらします。健一は、たまたまよく行くカフェの店員に一度美紀と遊んでもらいたい頼み、美紀に動く母親の姿を感じさせます。
参観日の日、健一の前で人一倍元気にハイハイと手を上げる美紀がいます。描き上げた母親の似顔絵が貼られています。
そして第三章、またも母親不在、ただしこのパートは不在ゆえの再会というお盆エピソードです。健一と美紀は義父母から義父の実家へ行こうと誘われます。美紀からすればひいおばあちゃんになる義父の母は、やや痴呆がきているようで美紀を見てよう帰ったな朋子と自分の孫、美紀の母親と間違えたりします。
さすがにこのあたりまできますと誰でも気づくとは思いますが、この映画はシングルファーザーの子育て映画ではなく、父親、母親、さらに言えば祖父母がそろってこそ子どもは育つという家族主義をテーマにした映画であり、それを母親不在の父子を使って逆説的に強調している映画です。
そうした価値観がしっくりくる人には感動的な映画であり、違和感を感じる人はざわざわとどこか落ち着かなさを感じる映画です。
第四章以降になりますとそれがさらに明確になってきます。
妻の両親、特に義父は健一に再婚を勧めます。これ、最初は健一に再婚させて自分たちが孫を引き取って育てたいという、娘を失くした親の独善的な欲望かと思ってみていましたが違いました。そういうひねくれた映画ではありませんでした(笑)。
孫に母親をというストレートな気持ちともうひとつ、健一を自分の息子と思っている、息子の幸せを願うのは親として当たり前という価値観がかなり強調されています。
実際に健一には結婚したいと思う女性奈々恵(広末涼子)が現れ、そのことによる美紀の異変が描かれます。美紀の性格は、母親不在の影響として描かれているのでしょうが、大人びたところのある子どもになっています。健一への気遣いがその裏返しとして大人びた言葉遣いや対し方になるという描き方です。
その女性奈々恵を美紀に会わせますと表向きは何ごともなく受け入れますが食べたものを戻すようになります。そして、中学は祖父母の家から通いたいと言い出すようになります。
これが子育て映画ではないことの証しでもありますが、こうした時に健一は何もしません。最初に書いたように時の経つのを待つという時間薬療法です。
そしてある時、健一はそろそろ大丈夫だろうと考えたのでしょう、朝食を奈々恵も交えて一緒に食べるようセッティングします。それを見た美紀は自分の部屋に引きこもってしまいます。いつまでも待っていると健一は言い、やがて美紀は部屋から出てきます。
現実のこういう場面で子どもがどういう態度を取るかなんてことはそれぞれの環境や個々の人格にもよるのでしょうからこれといったパターンがあるわけではないとは思いますが、この展開は男親が娘に望む願望なんだろうと思います。
同じ意味で言えば、美紀が奈々恵をお母さんと呼ぶシーンを、ここであったかどうかは記憶がありませんがどこかに入れていたのも同じく男親の願望でしょう。
義父が倒れます。もうこのあたりになりますと泣かせることを目的にしたような映画づくりになってきますのでもう目が曇って(笑)内容をよく覚えていません。
入院した義父は会いに来たいという美紀の願いを聞き入れません。弱々しく病床につく自分を見せなくないというのです。
その気持ちは理解できなくはありませんが、そこまで言うだけの美紀との関係がそれまでに描かれていませんのでかなり違和感はあります。とにかく、それでもやっと会うことを受け入れた義父は、美紀と奈々恵が見舞いにきた時、病室のベッドは片付けられ(あり得ないよね)本人はスーツに着替えてしっかりと立ってふたりを迎えるのです。
いくらなんでもやり過ぎですが、まあそういう映画ということでしょう。
義父は奈々絵に美紀と健一くんを頼むと言い残して、いやいや死んでいません(ペコリ)。このシーンでは結局、義父たち祖父母、その息子夫婦、そして健一、奈々恵、美紀の新しい家族がにこやかに家族写真風に並ぶカットで終えていたと記憶しています。
そしてラストは美紀があの赤いラインをなぞり、つまり実の母朋子を感じつつ、健一、美紀、そして奈々恵という新しい家族で生きていくというまとめ方で終えていました。
タイトルの「ステップ」はステップファザー、ステップマザーのステップということでした。
ということで、こうした家族主義的感動映画が、シングルファーザーであれシングルマザーであれ、現在では特別でもなんでもないそうしたそれぞれの生き方に対して精神的なプレッシャーをかけることになるのではないかと(私は)危惧します。
それに、ひねくれものの眼からしますと家族の描き方自体に家父長制が感じられて嫌ですね。