エピソードつなぎの安易なドラマになっていないか…
西川美和監督、ついに原作ものか?!
と思ったのですが、正直、これまでの自作のオリジナル脚本との違いはあまり感じられませんでした。いい意味で言えば、もともときっちりした脚本の存在が感じられる映画を撮る監督ですので、この映画でも原作に納得し、それを完全に自分のものにして脚本を仕上げたんだろうと思います。
西川美和監督は原作の何にひかれたのか
逆に悪い意味で言えば、原作の存在が感じられません。この物語なら原作に頼る必要はないのではないかということです。
もちろん映画自体はこれまでの作品と同じようにていねいにつくられていますし、単なるドラマではなくその中の人物に焦点を当てようとしていることはよくわかります。
ですので批判という意味ではないのですが、なんだか映画がきれいすぎますし、視点がありふれています。
まさか世界はすばらしいと言っているわけではないでしょうから、「すばらしき世界」を逆説的にとるにしても、せいぜい世の中はそんなにやさしくないということですし、犯罪者イコール悪いやつじゃないと言ってみたところで、2021年の今にあってはそんなこと当たり前のことですし、いま問題にすべきは、この映画ほど人はやさしくないし寛容になれないということじゃないかと思います。誤解されるといけませんのでさらに言えば、やさしい人も寛容な人もいるでしょう、だけれどもこの映画のようにはなかなか出会えないし、社会システムとしてそこに行き着けないということです。
原作は佐木隆三さんの『身分帳』、1990年の作品です。30年前です。映画は現代の物語に時代を移していますが、佐木隆三さんの小説から時代背景を取り去ったら意味がなくなるんじゃないかと思います。
西川監督はなぜこの『身分帳』を映画化しようとしたんしょう?
この文章は映画化にあたって復刊された文庫本のあとがきのようです。
これを読んで感じることは、とても文章もうまく自分の思いを伝えることにも長けていますので思いは伝わってきますが、映画化についてはやはり同じで、『身分帳』を現代に移したのは間違いで、もし現代の物語として映画を撮るのであれば佐木隆三さんと同じように今まさに出所して社会復帰しようとする人を取材して映画にすべきだったんだろうと思います。
ネタバレあらすじとちょいツッコミ
三上正夫(役所広司)が13年の服役生活を終えて旭川刑務所から出所します。呼び出しに応じる三上の動きは、長年の刑務所生活で体に染み付いてしまったのでしょう、いつも軍隊調です。出所に際して刑務官からもう戻ってくるなよと言われれば、はい!と答えつつも(台詞は忘れたが)自分の思いを正直に口に出してしまいます。
この冒頭のシーンもそうですが、三上は裏表のない実直な性格であるがゆえにまた直情的でもあるという人物造形が映画全体を通して貫かれています。言い換えればいい人なんだけど短気だという描き方です。
この時、刑務官が厚さ2、30cmもあろうかという「身分帳」を机の上にドカンと置きます。身分帳とは、入所者の経歴や家族関係、所内での態度や面会記録などが詳細に記載されている外には出せない文書らしく、また、それだけ厚いということは所内でもいろいろあったということになります。
出所した三上は身元引受人の庄司弁護士(橋爪功)のもとに身を寄せます。庄司はこれ(身元引受)は趣味みたいなものだから気にしなくていいと言い、妻(梶芽衣子)もなんのこだわりもなく三上に接しています。
この映画の中で最初に違和感を持ったのがこの妻の描き方で、複雑さが感じられないのになぜか押し出しが強い人物になっています。当然ながら夫が身元を引き受けてくる出所者は初めてではないわけですからこれまでにもいろんな人物が来ていると思います。夫はさほど三上個人に思い入れている様子はありませんが、その分その思い入れを(映画的に)負担させられているんだと思います。単にやさしさの一面しかない人物にされています。夫婦の会話をワンシーンでも入れておけばまた違ったんではないかと思います。
三上は庄司に連れられ役所に生活保護申請をしに行きます。担当の職員(北村有起哉)は反社には生活保護はおりないですよとそっけないです。庄司が13年も刑務所に入っていたんですよと言いますと申請にまわしますと答えています。
あの役所の職員、あんなこと言っちゃだめでしょう。それにあんなこと言わないでしょう。これにしても生活保護申請の現実的な問題は扶養照会という申請者に抑圧的に働く行為なんですから、それも描きつつ三上の過去にここで触れておけばいいのにと思います。
この職員は最初の対応に罪悪感でも感じたのか、これ以降は三上を気にかけて直接訪ねてアドバイスしたりする人物になります。
シーンが挿入された位置はここではないかも知れませんが、作家を目指す元テレビ局員の津乃田(仲野太賀)とディレクターの吉澤(長澤まさみ)が登場します。津乃田が吉澤から送られてきた書類(身分帳とのタイトル)を見ながら吉澤の電話を受けています。吉澤は本人から送られてきた、面白そうだからこれ追ってよ、と言っています(だったと思う)。
これ、ちょっと安易すぎません? 三上が送ってきたって、佐木隆三さんに本人から送られてきたという話を使っているんだろうと思いますのでそれはひとまず置いておくにしても、これ以降、三上と津乃田の間で身分帳のみの字も語られませんよ。
後日、津乃田は三上を訪ね、三上を取材して番組にしたいと持ちかけ、三上も受け入れます。三上は逆に母親を探して欲しいと申し出ます。(津乃田が言ったんだったかな?)
三上はアパートを借りて自立しようと動き始めます。近くのスーパーで買い物をします。万引きを疑われ店主(六角精児)に問い詰められます。三上が机の上に持ち物全部をぶちまけ凄みを(やや)効かせます。店主は謝罪し、立ち去ってしまった三上の後を追い、お詫びのしるしとして店の商品を渡し、出身が同郷というところから親しく話をすることになりアパートに上がり込むまでになります。
この店主ももうこれだけで三上のことを気にかける人物になります。
ある夜、アパートの階下がうるさく、三上は我慢しきれずに静かにするよう言いに行きます。数人の男たちがゲームをやって騒いでいます。話しぶりから建築現場で働く男たちらしく年長の男は日本人で他の男たちは東南アジア系の技能実習生か留学生のようです。年長の男が、俺らが汗水たらして働いている金をただでもらって遊んでいる(というような意味)奴が何を言ってやがると凄みます。しばらくは下手に出ていた三上ですが、キレて表に出ろ!とこちらも凄みます。にらみ合う二人、三上がヤクザであるかのような啖呵を切りますと男は逃げていきます。
んー、こんなどこかで見たようなエピソードつなぎで三上を描いていいんでしょうか…。
刑務所で身につけた技術を活かした仕事を探しますが見つかりません。役所の職員や津乃田のアドバイスで運転免許があればと考えますがすでに失効しており、再取得には一から始める必要があります。いきなり試験を受けますが散々です。
角田と吉澤が三上を飲み(食事?)に誘います。吉澤は企画の趣旨を熱っぽく(見えるように)語ります。三上もまんざらではなさそうです。
その帰り、三上は男二人に絡まれる会社員を見かけ止めに入ります。乱闘になります。二対一ですので三上もやられはしますが、近くにある脚立やらなにやらを使って二人を叩きのめします。
吉澤が津乃田にカメラを回せと命じています。しばらく乱闘を撮っていた津乃田ですが、突然カメラを投げつけて(吉澤にだったかな)、その場を逃げ出します。
走る津乃田、追いかける吉澤、追いついた吉澤が(なんて言った記憶にないが、要は役に立たないやつだと)罵倒して去っていきます。
テレビ局のディレクターって、今でもあんな感じなんですかね? ステレオタイプ過ぎません?
八方塞がりで、ついにくさってしまった三上は福岡の兄貴分(なのか、突然なのでよくわからない)に電話をし、福岡を訪ねます。
ああ、ワンシーン忘れています。三上の殺人罪は、妻とやっていたバーにヤクザがやってきて何かがあったらしくその時の争いで相手が持っていた日本刀で相手を滅多刺しにしたということのようです。その妻のもとを訪ねます。妻は結婚しているようでドアの前に佇んでいますと小学生の子どもが帰ってきます。三上は子どもに年齢を聞き、指を折って数えています。(自分の子どもじゃないという意味でしょう)
このシーンに関連して過去の裁判シーンがフラッシュバックされます。どういう意図のシーンかははっきりしませんが、検察の誘導尋問に引っかかって殺意を認めるようなことを言っていましたので短気なところを見せたかったのかも知れません。
福岡です。兄貴分の下稲葉(白竜)は妻(キムラ緑子)とともに歓待してくれます。下稲葉は建築会社の看板をあげています(が裏でヤクザ稼業もやっているのかも)。三上との会食中に電話が入り、トラブルがあったと言って出掛けていきます。
(三上がどこへいっていたのか記憶にないが)三上が下稲葉の家に戻りますとパトカーが来ており家の周りが騒々しくなっています。突然三上の前に姉さんが現れ、行っちゃダメ、カタギになる最後のチャンスよと引き止め、のし袋に入ったお金を渡し三上を押し返します。走り去る三上です。
なんだか都合のいい展開です。物語のためにシーンを当てはめているみたいです。
津乃田から電話が入り、三上が子どもの頃にいた施設がわかったと言います。三上の母親は芸者で三上を養護施設に預けたということです。
三上と津乃田は施設を訪ねます。当時食事作りの手伝いに来ていたという老年の女性が待っています。(一瞬、三上が母親かと目を輝かせるカットを入れている)女性は、直接関係することは記憶していないが、自分はオルガンが弾けたので施設の歌をよく弾いていたと口ずさみ始めます。三上がそれに続けて歌い始めます。
施設の運動場で子どもたちとサッカーをする三上と津乃田。子どもがゴールします。子どもたちとハイタッチして喜ぶ三上、突然泣き崩れます。唖然としてどうすることもできず見守る子どもたちです。
東京に戻り、三上は介護施設で働くことになります。刑務所生活で身につけた技術や几帳面さが役に立っています。施設では発達障害の青年が働いています。ある時、その青年が同僚たちにこづかれたりといじめにあっている現場に遭遇します。
三上は止めに入りいじめる同僚たちに暴力を振るう自分を想像します(という映像が入る)。しかし、自分を押さえ込みます。作業室に戻り作業をしていますと、いじめていた同僚がやってきて、あいつはミスばかりすると罵り、周りの皆に同意を求めます。皆もそうだねとさらに青年について言い募ります。いじめていた男が三上にも同意を求めます。厳しい顔の三上ですが、突然表情を緩め、笑顔を浮かべてそうだねと答えます。
安っぽいドラマになっていませんか?! 少なくとも、そうじゃないと言う人物をここに置くくらいは出来るでしょう。 そうした人物を置いたらドラマが成り立ちませんか? そこで議論が起きればそれがドラマでしょう。それにそれが今ある現実だと思います。これじゃ、吉澤の企画と同じです。
このレビューはいつもこういうパターンです(ペコリ)。書き始めますとどんどんツッコミが激しくなってしまうんです。いい方にとる見方だってあるんですけどね。
とにかく、その帰り、青年がコスモスの花束をくれます。また、元妻から電話があり、今度娘も一緒に食事しようと誘ってきます。笑顔で帰宅する三上、しかし、その夜、三上は突然死します。(映画は持病があることを最初に見せている)
エピソードつなぎのドラマでいいのか?
いつもどおり思い出しながら書いてきましたらとても長くなってしまいました。
最初にこの映画について、ていねいにつくられているしドラマを見せるのではなくその中の人物に焦点を当てようとしていると書きましたが、そうでもなかったです。
三上はともかく、周りの人物が皆どこかのドラマで見たような人物になっています。また、その人物の三上との関わりがこれまたどこかで見たようなエピソードで綴られています。
西川監督のインタビューを読んでいた中のどこかの記事にあったんだと思いますが、初稿は膨大な量の脚本になり、そこからこれも入れたいけど入らないと泣く泣くカットしたようなことを語っていた記事があったと記憶しています。おそらくそれがこういうエピソードつなぎの映画になった原因でしょう。
やはり、何度も書きますが、『身分帳』を映画化するのであればその時代の話に、現代社会における出所後の人物の問題を映画にしたいのならあらためて現実を取材して自作脚本で撮るべきだったんだろうと思います。
三上正夫ではなく役所広司にしか見えない…
私にはどうしても三上正夫がどういう人物なのか見えてきません。
役所広司さんというやさしいおじさんにしか見えません。
唯一、
このシーンでは役所広司さんではなく三上正夫がみえそうだったんですが…。