「ビー・ガン[凱里ブルース][ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ]フー・ボー[象は静かに座っている]に続く中国第8世代新たなる才能の発見チウ・ション|仇晟 鮮烈の長編デビュー作」と紹介されています。ただこの映画、2018年製作の映画です。
新たなる才能か、未熟さか…
未熟さとまでは言わないまでも、この乱雑さは気負いの現れだと思います。
やっていることはわかります。現在とも過去とも判然としない二つの時間軸を交錯させて描いています。場所は都市開発によって失われていくものと生まれてくるものが同居しているような場所です。視点としては、失われていくものに軸足をおいて生まれてくるものを見ている映画です。
こうした手法も視点も目新しいものではありません。多くの映画が描いてきていることです。二つの時空が交錯するきっかけに廃墟(あらためてトレーラーを見てみたらそうでもない…)となっている学校に残された日記を入り口とすることもありきたりです。
そんなことはチウ・ション監督にも分かっているでしょう。じゃあどう違ったものに見せるか、その結果が乱雑な編集に象徴されるこの映画のわかりにくさになっているんだろうと思います。
チウ・ション監督は1989年生まれですのでこの映画制作時は20代後半です。これが長編デビュー作で、その後は短編1本と、共同(協力?)監督ということなんでしょうか、uncredited(IMDb) となっている長編があります。
大人のハオ
大人のハオは測量技師です。4人で測量をしています。日本の公式サイトには「地盤沈下が進み《鬼城》と化した中国地方都市の地質調査に訪れた」とありますが、映像からはまったくその気配がありません。まあ確かに技師の他に人はいませんのでゴーストタウンと言えばそうではあります。その後住民なのかよくわからない人物から聞き取り調査をするシーンがあります。住居が傾いたとか言ってんでしょうか、これもまったく現実感がありません。
そういう映画ではないと言ってしまえばそれまでですが、散漫な導入です。
脈絡のある編集がされていませんので記憶は曖昧ですが、その後、ハオが学校の教室に入り、生徒の日記を読むところからもうひとつの時間軸に移ります。その生徒の名が同じくハオということで、もうひとつの時間軸がハオの少年時代の記憶なのか、別人物なのかは曖昧にされています。
トレーラーのこのシーンを見てみますと廃墟じゃないですね。時間軸が交錯とか、どうでもいいことかも知れません。測量機器のオートレンズ(と言うらしい…)や双眼鏡が頻繁にでてきますので、覗いて見るあっち側とこっち側みたいな感じというのが正解かも知れません。要は単純に二つの物語を同時に進行させているということでしょう。
ところで、冒頭のシーンはオートレンズを覗いた画を左右に360度回転させるような画で始まっていましたが、あんなふうに周囲がボケることはないようです。演出なんですからいいんですけどね。
少年のハオ
で、少年のハオです。これはもう少年時代の楽しい日々と、そしてちょっと黄昏れた冒険旅行が描かれます。こうした少年時代の冒険旅行というのはどうやっても「スタンド・バイ・ミー」だと言われますのでつらいところでしょう。
遊び仲間のひとり太っちょが学校へ来ませんので皆で家まで行くことになります。誰も家を知らないのですが、ひとりの女の子が知っていると言い、皆で瓦礫の山を越え、線路を歩き、草むらをかき分け、塀を乗り越えて進みます。そして、その度ごとにひとりずついなくなっていきます。
すでに黄昏時です。知っていると言った女の子が川中の石の上に立ち夕日(の方…)をながめています。ハオともうひとりの女の子は川辺に座り不安そうです。
見ていた先が何であったかはわかりませんが、チウ・ション監督はいい画が撮れたと思ったことでしょう。
交錯するふたつの時間のその向こう…
という本当は単純な話であるのに曖昧模糊、ではなく乱雑散漫(ペコリ)な編集で難しく見せようとしたがために損をしている映画です。
大人シーンと子どもシーンの人物それぞれに関連があるかのように見せたり、双眼鏡やオートレンズでふたつの時間を関連させたり、誕生会のシーンをダブらせたりしています。そうした関連をもっと強調したモンタージュをすればいいのにと思います。
ところでトレーラーの出来が結構いいです。これを見ると本編が見たくなります。
とにかく、結局はそうしたあれこれの手法ではなく、交錯するふたつの時間のその先に何を見せてくれるかです。見えないやつは放っておこうでは映画にはなりません。
それに、ホン・サンス監督の手法を真似たりするのはやめたほうがいいですね。