既視感はあるが気持ちが豊かになる映画、悲惨さを越えて。
「イン・ザ・スープ」のアレクサンダー・ロックウェル監督の25年ぶりの日本公開作品ということです。タイトルにはなにか引っかかるところがありますが多分見ていないです。それに、25年ぶりということは1996年になりますが、この映画の製作年は1992年になっており日本公開が遅かったのか、他の映画の話なのか、IMDbなどでは日本公開は2006年になっていますし、1994年に単館上映と書いているものもありますしどうなっているんでしょう?
とにかく、アメリカインディーズ界のカリスマとかアイコンとか雄とかの形容がつく監督です。
インディーズっぽい
インディーズというくくりがなにか特定の映画のつくりを指しているわけではありませんが、言葉としてはなんとなくしっくりくる映画です。
スーパー16ミリでのモノクロのフィルム撮影ということやアップの多い映像処理ということもありますが、何となく全体として自由さが感じられます。撮りたいものを撮っているということが伝わってきます。
それに何と言っても主演のビリーとニコが監督の実際の子どもたちですし、母親を演じているのもカリン・パーソンズさんというパートナーの方ということが大きいです。
インタビュー記事がありましたので読んでみましたら、もう親バカぶりを発揮しまくっています。ビリーを演じている娘のラナ・ロックウェルさんについて
ラナを美しくなく撮るのは無理なんですよ(笑)! どう撮ったって美しい!
なんて言っています。
確かに美しいですが、それにもまして存在感があります。歌の雰囲気もなかなかのもので、劇中でヴァン・モリスンの「Sweet thing」を歌っています。いい俳優さんになりそうです。
そう言えば最初に25年ぶりにこだわってごちゃごちゃ書いた件(笑)、この記事の中に答えがありました。オムニバスで参加した「フォー・ルームス」以来の25年ぶりということでした。
物語自体には既視感が…
ひどい大人たちがために子どもたちが受難にあう物語です。ただ、ラストではハッピーエンドの部分(あくまでも部分)もありちょっとは救われます。
アメリカのマイノリティ
15歳のビリー(ラナ・ロックウェル)と11歳のニコ(ニコ・ロックウェル)は父親アダム(ウィル・パットン)と暮らしています。母親イヴ(カリン・パーソンズ)は出てしまっています。
ん? アダムとイヴか?
なんのジョークなんでしょう。とにかく、母親が出ていった理由についてはなにも語られませんが、父親がアルコール依存症ですのでそのせいかもしれません。ただ、母親自身もほめられたものではありません。後にビリーとニコは、ボーという男と暮らす母親のもとで暮らすことになるのですが、子どもたちをかばうよりも男の機嫌を損ねないようにと振る舞う女性です。
アメリカのマイノリティという社会環境の物語です。母親はアフリカ系と思われますし、父親はアルコール依存症で着ぐるみでチラシを配ったりする仕事で稼いでいます。
ビリーとニコは駐車中の車をパンクさせて修理屋から小銭の報酬をもらっています。それが生活費になっているのか小遣い稼ぎなのかは映画は語っていません。そうした生活環境に注目している映画ではありません。
アルコール依存症の父アダム
父親はしらふであれば子どもたちに愛情を持って接していますし、クリスマスにはビリーにウクレレをプレゼントしたりします。しかし、アルコールが入りますと酔いつぶれるまで止まりません。それを介抱するのはビリーです。ビリーはニコへのクリスマスプレゼントも自分で用意しています。
まあ、つじつまとしては、父親がビリーにだけにプレゼントを用意しているのは、ニコへのプレゼントをビリーが用意していることを知っているようでちょっと変なんですが、この映画、子どもたちの映画ですのでそうしたところへのツッコミは無用ということです。
クリスマスのディナーは母親もそろっての中華の約束です。しかし、母親が一緒に暮らしているボーをつれてきます。それはないだろう!と怒るアダム、逆ギレしたイブとボーはアメ車の爆音を残して去っていきます。
ある日、父親は酔いつぶれて戻り、何を思ったか、ビリーの髪の毛を切ってやると言い、抵抗するビリーに構わず切り始めます。ニコが自分で髪を切り「僕も同じだよ」と寄り添います。
それを機に父親が入院措置となります。ビリーとニコは母親のもとで暮らすことになります。
子どもより男の母親イヴ
日本では幼児虐待が表沙汰になる場合で、女性が男性依存で子どもの虐待を知らぬふりをしたり男の機嫌を損ねないように自分も虐待に加わったりすることがあるようですが、このイヴの場合もそれに近いです。
バーを経営するボーは横暴な男です。イヴはもともと従順な人物ではありませんが、ボートの関係を壊したくないと考えているようです。
母親とともに楽しくはしゃいだりするシーンもありますが、それも次なる悲惨なことへの前ぶりのようなものです。
ある日、ボーがニコを連れて魚釣りに行きます。戻ってきたニコはビリーにボーが自分の性器を出して…(詳しくは語られない)と訴えます。ビリーは母親イヴにその話をしますが、イヴは何てことを言うの!と逆にビリーを平手打ちします。
そして、またある日、イヴが出掛けているすきにボーはニコに同じこと、具体的には語られませんが性的虐待を加えようとします。ニコはクリスマスプレゼント(だったと思う)のナイフを出してもみあいます。そこにマリク(書いていませんが、親しくなった地元の少年)がやってきて、ボーの足にナイフを突き立てます。
3人は家を飛び出し、不安と自由への希望を懐きながら逃亡の旅に出ます。
自由への逃避行
こういう展開はアメリカのインディーズの得意とするところだと思います。暗くならず、不安と高揚の微妙なバランスで、多くの人が持っているだろう何ものにもとらわれない自由の希求を描いていきます。
マリクが鍵のかかっていない車を映画によくある電線をバチバチとやってセルモーターを回す方式でエンジンをかけ盗みます。マリクは母親の車だと嘯いています。
無人の豪邸に忍び込み、自由気ままに振る舞ったり、花火で遊んだり、海辺で遊んだりと、この上ない楽しさでしょう。ビリーが「Sweet Thing」を歌うのはここだったと思います。
楽しいことがあればつらいこともあります。寒さと空腹に震えている時、キャンピングカーで暮らす老夫婦に出会います。孫のようにでも感じたのか、食事を振る舞い優しく接してくれます。
しかし、翌朝、マリクが目を覚まし外を見ますと、老夫婦が警察と話しています。本当のところどうかはわかりませんが、マリクは裏切られたと叫び、ビリーとニコを起こし逃げようとします。
マリクが外に飛び出した時、一発の銃声、ビリーが外をのぞきますと、マリクが警官に打たれ倒れています。
そしてビリーたちは両親とともに
マリクは一命はとりとめたものの肉体にも精神にも障害が残り、話すことも出来ず自由に身体を動かすこともできなくなります。
ビリーとニコは退院した父親と暮らすことになり、イヴもボーと別れてふたりのもとに戻ってきます。マリクが刺したボーも一命をとりとめたとのことです。
ビリーとニコはマリクが入院する病院に忍び込み、車椅子のままマリクを海辺に連れ出し、3人で戯れます。
衒いのなさが映画を救っている
物語自体には既視感がありますし特別新鮮なものではありません。
しかし、映画としては結構見られます。撮りたいものを撮るがために自主映画的にクラウドファンディングや自己資金で撮っているからでしょう。
映画の出来不出来よりも、こういう映画は見ていても気持ちが豊かになります。映画の中で起きていることに悲惨さがあり、またその解決策が示されているわけではないにしても、どこか気持ちがクリアになる気がします。
それがインディーズであることの意味なのでしょう。