子どもの臓器移植なの? 屋久島の自然なの? ラブストーリーなの?
監督作品としては2020年の「朝が来る」以来の河瀬直美監督です。主演はヴィッキー・クリープスさん、他はすべて日本の俳優です。キャスティングのパターンとしてはジュリエット・ビノシュさんを主演に置いた2018年の「Vision」を思い出します。その映画も他は日本の俳優で、どちらも主人公がフランスから日本にやってきているという設定です。

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ネタバレあらすじ
上に紹介した過去の2本の映画、どんなことを書いたんだろうと読み返してみて笑っちゃいました。「朝が来る」に河瀬直美監督の映画だなあと感じることを2つあげており、
ひとつは、ラストカットもそうですが、シーン替わりなどに自然描写の映像を頻繁に入れています。夕陽、風、海、森、風にゆれる木々、桜、秋や冬を感じさせる季節感のある画を頻繁に使って情感を出しています。
もうひとつは、徹底的なリアリズム、と言うべきかどうかはちょっとばかりクエスチョンですが、俳優の台詞回しにかなりこだわって自然であること、リアルであることを目指しています。かなりリアルです。
(朝が来る)
と書いています。
この映画「たしかにあった幻」でもそのまま当てはまります。屋久島の風景を頻繁に入れていますし、ふたつ目の指摘に関しては、言い方を変えますと、リアリズムというわけではなく、俳優を使っていてもドキュメンタリーのように撮るのがうまいということです。子どもの臓器移植を軸にした死生観をテーマにしていますので医療現場のシーンが結構あり、俳優なのか実際の医療従事者なのかわからないシーンがたくさんあります。
もうひとつの「Vision」ではかなり厳しいことを書いています(ゴメン…)。こちらも当てはまります。
自分の観念を表現するために森(山)を利用しようとしているようにもみえます。
(Vision)
「Vision」は吉野の山が舞台の映画でした。「たしかにあった幻」では屋久島です。
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コリーは何しに日本へ
コリー(ヴィッキー・クリープス)は神戸の臓器移植医療センターで働いています。
ただ、どういう立場で働いているのかははっきりしません。コリーは日本語をほとんど解しませんので医師や看護師というわけではなく、交流事業で派遣されているような設定なのかもしれません。医師や看護師やコーディネーターを集めて臓器移植についての講義(のようなこと…)をやっていました。
あまり突っ込みを入れるのもなんですが、あの講義の内容は薄っぺら過ぎます。日本での臓器移植(子どものかな…)は海外と比べて少ないという内容で、我々のような一般人ならまだしも医療従事者を集めてやるようなものじゃありません。
それに映画全体としても、臓器移植についてどういう視点を持っているのか曖昧な映画です。日本人の死生観や脳死を人の死とするかの倫理観や医療現場の人員不足や過重労働のようなことをちらっと言葉で入れてはいてもそれ以上深めようとの意識は感じられません。
結局、描いているのは小児病棟でドナーを待つ子どもとその親の、なんだろう、まあ日常みたいなものでしょうか。もちろん現実の家族には相当厳しい日常だと思いますが、映画はそこにポイントを置いていないようで、率直なところこれといって印象に残っているシーンはありません。
子どもたちは常時医療用チューブに繋がれていますが大変さなどが特別強調されるようなこともなく、親の方も常に付き添っていなくてはいけないことに愚痴をいうでもなく、ごく普通の日常です。ドキュメンタリーであればまた違った見え方もしますが、これはドラマですし子どもたちも子役です。
いかん、いかん、書き過ぎる。とにかく、医療現場のシーンでこれといったことが伝わってくる映画ではありません。
やはり言葉は重要ということでしょうか、コリーが子どもたちに寄り添っている雰囲気はあってもそれ以上伝わってくるものがありません。なにか方法はあるのではと思いますが最後までコリーは浮いたままです。
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迅は何しにコリーの元へ
それを補うという意図なんでしょう。コリーの恋愛が並行して描かれます。
コリーは屋久島で迅(寛一郎)と出会います。迅は二眼レフカメラを持っており写真家を思わせますがよくわかりません。コリーにいきなりそこに立ってと言い、写真を撮ります。この1枚は後にコリーの住まいのフォトフレームに入っていました。
また迅はこうしてごらんと言い、両手を後ろ向きに耳に当てます。人は前からの音しか聞かないが手を後ろ向きに当てれば後ろからの音が聞こえるということです。これはこの映画の基本的なテーマだと思われます。人の生き様は一方通行じゃなく、行ったり来たりするということのようです。ただし、そうだとしてもこれが映画全体を支配するほどの力を持っているわけではありません。
屋久島での二人がそれだけで別れたのか、あるいはより深い関係を持ったのかはわかりませんが、後日、迅が神戸のコリーを訪ねてきて、そのまま同居するようになります。
迅は7月7日は自分の誕生日だと言い、織姫と彦星の話をします。なぜこんな話を持ち出してくるのかは、おそらく河瀬直美監督は基本ロマンチストだからだと思います。
その迅ですが、次第にダメ男化していきます。ゴロゴロ居候ということです。そしてある日、コリーがそのことを咎めたために迅は何も言わずに消えてしまいます。
これ以降迅は登場しません。コリーは嘆き悲しみます。その後、実は迅には失踪の公示催告がされていることがわかります。
失踪宣告(法律上の死亡扱い)は、普通失踪(7年)または危難失踪(1年)の生死不明期間後に家庭裁判所へ申立て、官報への公示催告(3か月〜)を経て確定します。(Gemini)
コリーは迅の実家を訪ね、迅が養子であること、そのことを知った高校生の迅はその後人が変わったようになり、7年前(だったか…)に失踪したということを知ります。
迅とのラブストーリーはこれだけです。迅が置いていったカメラにはフィルムが入っていなかったというシーンがあります。わざわざ入れているわけですからなにか意図があるとは思いますが何なんでしょう。
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移植シーンは海外のもの
ラブストーリーの方はそもそも二人が惹かれ合うようなシーンもなく、コリーが激しく嘆き悲しむような愛を感じさせるシーンもなく、迅がコリーを愛していたかどうかもあやしく、単に都合よくねぐらを得ようとしただけじゃないかとも思え、結局のところ河瀬直美監督にはラブストーリーは描けないということじゃないかと思います。
小児臓器移植の方は、終盤になり、場所不明のまま(屋久島かなあ…)、遊ぶ少年たちのうちのひとりが突然倒れ、そのまま脳死状態となり、医師が両親に臓器移植を確認し、神戸の臓器移植医療センターに運ばれることになります。
両親と話していたのは医師にみえましたがドナーコーディネーターとかじゃなくていいんですかね。
書いていませんが、神戸の臓器移植医療センターのシーンは当初女の子を軸に進んでおり、映画中頃にそこに男の子が入院することになり、二人は仲良くなるものの女の子のほうが亡くなってしまいます。そして、その男の子がレシピエントとなります。
心臓移植のシーンは実際の映像と思われます。医師が英語でやり取りしていたのはなぜでしょう。多分、海外の移植手術の映像なんでしょう。
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感想、考察:命をつなぐ、ひとことでは…
という私には取りとめなく感じられる映画でした。
そもそもコリーが日本で働いていることに説得力がありません。子どもの臓器移植を映画の中心に置いているにもかかわらず、主役であるコリーが中心的な役割を果たせないというのはそもそもの企画のスタートからして間違っています。
それは「Vision」でも同じことで、カンヌに好かれている河瀬直美監督ですのでなにか訳があるんでしょうが、それならそれでこんな中途半端なキャスティングをせずに腹を据えてフランスで撮るとかにしたほうがいい結果が出ると思います。
逆の見方をすれば、子どもの臓器移植をテーマに撮るのであれば、それ一点に絞ってもっと深い考察を持って撮るべきです。この映画はドナーとなる子どもの両親のシーンをわずか1分程度で片付けています。両親の決断も命をつなぐという言葉ひとつで片付けています。
そして台風がやってくる? 間に合うかどうかですって?
どうなんでしょうね、そのシナリオ…。