難解複雑さは愛が紐解く
クリストファー・ノーラン監督、私はあまりよく知らなく、「ダンケルク」を劇場で、その後「インターステラー」をDVDで見ただけですが、この映画の宣伝コピーなどをみていますと名前で客が呼べる監督のようです。
確かに上の二作を見ただけの私でも、やはりこの監督の映画を見るのであれば劇場へ足を運ぶべきだと思います。
ドルビーシネマの上映もあったのですが通常上映で見てきました。それでも低音で椅子が振動するような感触がありました。単に音がでかいだけなのか(笑)、なにか仕掛けがあったんでしょうか。映像はさほどでもなく音楽でメリハリをつけている印象の映画です。映像はなんだかぼんやりしていました。別撮りのせいかも知れません。
以下、ネタバレとは書いていますが、いわゆる時間がどうこうとか「TENET」が何を意味しているのかなど、この映画をどう読むかみたいなことは書いていません。書いていることは、どんなに映像や音響の技術が進歩しても結局映画に描けるのは人間感情の綾でしかないという話です。
その点では、この映画は大層なつくりの割には面白くありません。
理由は簡単です。人間の描写に深みがないからです。時間の逆転という一見新しそうな発想に溺れているだけです。考えてみてください。時間の逆転の表現が映像の逆回しですよ。そんなの素人でも思いつきます。
この映画が扱っている時間移動の概念は、これまであったタイムマシンとは違ったもので、時間そのものを逆転させるということらしく、それでなぜ過去へ移動できるんだろうという疑問は残りますが、それは置いておいて、セイター(ケネス・ブラナー)という武器商人が時間逆行装置「アルゴリズム」を可動させ地球まるごと(って宇宙はどうなるの?)逆行させようと企んでおり、それを名もなき男(ジョン・デヴィッド・ワシントン)が阻止するというお話です。
で、その阻止の過程で名もなき男が過去へ移動し、つまり自分の時間を逆転させて過去にいるわけだから過去に移動したときにはその場の時間軸とは時間の流れ方が逆になるという表現に映像の逆回しが使われているわけです。
ん? じゃあ、永久に目的とする時間には行けないんじゃないの? 自分は過去へ向かって進んで、その場は未来へ進むということ…じゃないのかな? なんて疑問を持ってはいけないですし、そうした疑問を抱かないように映画はかなり速いテンポで(端折って)進みますし、ネタはかなり小出しにつくられています。
ですので時間ネタはほとんど後半で語られることになり、へえーそうだったんだで終わってしまう感じです。
つまり、冒頭のオペラ劇場で名もなき男が格闘する相手が実は未来からやてきた自分自身であったりするわけで、最初に見せられた順回しの映像が映画のラストで逆回しで再び見せられるということになります。
クライマックスとなっているウクライナのどこか(爆心地?)での戦闘シーンもよくよく考えれば何をやっているのかわからない戦闘です。
名もない男とパートナーのニール(ロバート・パティンソン)たちが時間順行チームと逆行チームに分かれてセイター軍団(なんていた?)を時間的挟み撃ちにしてやっつけるということだったと思いますが、時々逆転映像が挿入されたりするもののやたら撃ちまくっているだけで敵が誰だかわかりませんでした(笑)。
それに、順行チームは赤のリボンをつけ、逆行チームは青のリボンをつけるってどうよ? 私は運動会みたいだなあと思って見ていました。
と、結構ボロクソ気味に書いていますが、ただ見ていてつまらないとか飽きるということはありません。次から次へと意味不明なことがやってきます。それらをつなぎ合わせて映画の全体像を理解しようとする人は集中できるでしょうし、逆にぼんやり見る人でも時間がどうこうなどということは気にせず、おおすごいなあ、このシーンなどとそこそこ楽しめます。
私は後者の方ですが、そのあたりはやっぱりハリウッドだなあと感心します。
で、人物描写に深みがないのでつまらないということですが、あらためて時間云々以外の物語はどうなっているのかをみてみますと実のところ目新しさはまったくありません。
基本は、自分が死ぬのであれば全人類を道連れにしてやるというセイターという「悪」を善とは言えないまでも正義のCIAエージェントが阻止するという話です。そこに例によって付け足しのように女性の存在と母子愛の価値観が「華を添えて」いるというつくりです。
それにちょっとばかり驚く設定ですが、セイターが全人類を道連れにしてやるなどと無茶苦茶なことを考えているのは、何と!自分が膵臓がんで余命幾ばくもないという理由からです。
「悪」に哲学がない映画はつまらないです。
おそらく監督を始めつくり手皆感じていることだと思います。なにか理由をつけなくちゃいけない、けれども自分の死期が近いだけじゃ映画にならん、仕方ない、ひとことで済ませておこうということじゃないでしょうか(笑)。
キャット(エリザベス・デビッキ)に何気ない感じであの人は膵臓がんなのとぽろりともらさせ、名もない男も無反応で聞き流していました。
「悪」に深みなし、それに実は正義側にしてもさほど正義性が強調されているわけではありません。「悪」を大きく見せられないわけですから必然的に正義側もぼんやりになってしまうということでしょう。
実際、名もなき男が誰の指示で動いているのかもはっきりしていませんし、人類の滅亡という相当曖昧な概念が持ち出されて、それは阻止しなくちゃいけないとそこには何の思考も働いていません。
この映画には戦闘行為は描かれていますが、何と何が戦っているのかがかなり曖昧です。守るべきものがなにかも曖昧です。名もなき男が自分自身と戦うシーンなどその典型でしょう。
結局、意味のないアクションシーンや順回しと逆回しで目先を変えて持たせざるを得なくなっているということです。もちろん否定しているわけではありません。映像音響技術は相当高いですし編集技術だけでも持つ部分は多いです。
ただそれだけでは映画になりません。物語(映画)を進める力はどこまでいっても人間感情です。愛があり、憎しみがあり、喜びがあり、悲しみがあって初めて物語は生まれます。
なぜかそこに焦点を当てることはしていませんが、名もなき男が誰の指令もなく戦いに挑むわけはキャットへの愛です。
名もなき男とキャットの愛、キャットの息子へ愛、セイターのキャットへの(変質的な)愛、キャットのセイターへの憎しみ、それらがなければ映画は前には進みません。
ですので、それらを深く描けなければせっかくの時間逆転の発想も赤リボン青リボンに象徴されるように陳腐さだけが目立ってしまうということだと思います。