あえてダメなところを書き連ねてみると…
昨年2024年のヴェネツィア国際映画祭でブラディ・コーベット監督が最優秀監督として銀獅子賞を受賞しています。現在36歳で監督としてはこの映画が長編三作目ですが、11歳から子役として映画界にいますのでキャリアは長いですね。

あえてダメなところを書き連ねてみる…
監督としての前作はナタリー・ポートマン主演の「ポップスター」、今レビューを読み返してみましたら、この「ブルータリスト」で感じたことと同じことを書いています(笑)。
基本的に私はこうした過剰に作り込まれた映画は好みではありませんので気になるところばかりに目がいく傾向があります。ですので、いいところもある(あたりまえか…)のですがあえて気になるところを書き連ねます。
そうしたことが嫌な方は退出していただいたほうがいいかもしれません。
映画全体は見えている?…
まず、細部にこだわり過ぎて全体の流れがよくありません。映画全体としてバランスが悪いです。特に後半、物語としての流れがかなり端折られています。当然ながらシナリオがあって撮っているわけですからどうしてこういう構成になるのか不思議です。
まさかシナリオ段階で面倒くさくなることないでしょうから多分こういう手法が好きなんでしょうね。「ポップスター」もそうだったんですが初めて見る監督でしたので何を考えてやってるんだろうと興味深く見たということです。でもわかりませんでした(笑)。
後半の軸であるコミュニティセンターの建設シーンをすっぽり落としていますし、もうひとつの軸であるラースロー(エイドリアン・ブロディ)がレイプされたことも、その後のラースローを描くことなくいきなりエルジェーベト(フェリシティ・ジョーンズ)の殴り込みで物語の展開を図っています。そもそもイタリア行き自体が唐突でレイプシーンを入れたいがためにイタリア行きを持ってきているだけに見えます。
こうしたつくりは映画に先細り感を与えますし、3時間半という長尺物ですので見ていてどっと疲れが出ます(人それぞれです…)。
その割に妙にこだわって長々と語るシーンが多いんです。まず冒頭のアメリカへの入国シーン、船の中のラースローが船倉から甲板に上がるわけですが多くの人にもみくちゃにされながら移動します。アップの暗い画でカメラが動くわ動くわ、シーンは長いわで、もうわかったから次へいってなんて思いながら見ていました。
初っ端からこれですからね(笑)。
その後従兄弟のアッティラと再会し、まあその抱擁シーンの長いことといったらありません。意図した演出でしょうが何を意図しているのかわかりません。ラースローの人物造形に同性愛指向があるということなら中途半端過ぎます。確かにその後もそれを匂わせているのかなと思うシーンが多いのですがそれに何の意味があるんでしょう。もしそうだとしますと後半のレイプはどうなるんでしょう。エルジェーベトの殴り込みはラースローの同性愛指向を知ったことからのふたりへの復讐だった? ってこともあるのかも知れませんね。まあそれならそもそも映画としてダメでしょう。
シンプルさに欠け、あざとくないか…
劇伴が煽り音楽であざとくうるさいです。まあこれも好みの問題ではありますが、とにかくSE も含め音に頼りすぎです。
あざといシーンと言えば、すでに書いた冒頭の船内のシーンもそうですが、その後甲板に出てラースローが自由の女神を見るカット、最初は逆さまでしたかね、それがぐるーと回り始めるなんて見え見えであざといです(ゴメン…)。
ハリソン(ガイ・ピアーズ)がラースローに自分と母親のことを語るシーンはあざといというよりも力が入りすぎてシナリオに書き込みすぎでしょう。ブラディ・コーベット監督本人の心の声かも知れません。
ブルータリストという言葉はブルータリズムからきているわけですが、そもそもブルータリズムはシンプルなものじゃないかと思います。だからといって映画がシンプルじゃないといけないということもありませんが、こんなゴテゴテな映画でブルータリズムを語っても建築物が醜く見えるだけです。
おそらくそういうことでしょう。ラースローがデザインするコミュニティセンターや聖堂の外観なんて醜さそのものです。ラストシーンで強制収容所をイメージしていると語っていましたのでブラディ・コーベット監督の狙いもそこなんだろうと思います。
序曲(Overture)、パート1:到着の謎(Part 1: The Enigma of Arrival)、パート2:美の核心(Part 2: The Hard Core of Beauty)、エピローグ:第1回建築ビエンナーレ(Epilogue: The First Architecture Biennale)というタイトルもねえ。これも「ポップスター」と同じです。
もうここまできますとただケチをつけたくて書いているみたいになってきました(笑)。
ラースローを実在の人物に見せようとしている(かどうかはよくわからんが…)のもあざといです。実在であろうが創作であろうが所詮映画はつくりものです。
ただし、つくりものであっても人を感動させることができ、時に何かを動かすこともあるということは付け加えておきます。
立ち位置はどこにあるのか…
この映画からはっきりしたテーマを読み取るのは難しく、一番強く出ているのは「ユダヤ」というものですが、ブラディ・コーベット監督の立ち位置がどこにあるのかはよくわかりません。
ラースローはユダヤ人です。ホロコーストサバイバーであり、アメリカに逃れてきているという設定です。そのラースローが典型的なアメリカ人キャラであるハリソンに引き上げられてヨーロッパで築いたプライドを取り戻していきます。ハリソンもそうだと思いますがその地域はプロテスタントが多く暮らす地域です。そこに強制収容所を模した聖堂を建てるわけです。
これをどう捉えたらいいんでしょうね。それにシオニズム、ラースローの姪は祖国へ戻るといってイスラエルへ旅立っていきますし、エルジェーベトもラースローにイスラエルへ行こうと持ちかけています。帰ったのかな?
そしてユダヤ人のラースローは典型的アメリカ人のハリソンにレイプされます。それに対するラースローの心情が描かれていませんのでよくわかりませんが、少なくともエルジェーベトが復讐し、ハリソンは行方知れずのまま終わります。自殺したということかも知れません。
天井から差し込む光で下の大理石に映る十字架は逆さまです。
まったくブラディ・コーベット監督の立ち位置がわかりません。うがった見方をすればネタ扱いかも知れません。
ブラディ、ボランティアでもしてきたら…
まだいろいろあったんですがもうかなり忘れています。
残るものがないということです(私には…)。
最後に一言、ブラディ、ボランティアでもしてきたら。