2017年にイタリアの文学賞ストレーガ賞を受賞しているパオロ コニェッティ著『帰れない山(Le otto montagne)』が原作の映画です。原題の意味は「8つの山」です。映画のなかでその意味が語られます。
監督、脚本はフェリックス・ヴァン・ヒュルーニンゲンとシャルロッテ・ファンデルメールシュの連名になっています。名前を見ても思い出せませんでしたが、過去の作品のタイトルを見て、ああということで思い出しました。フェリックス・ヴァン・ヒュルーニンゲン監督の映画は「オーバー・ザ・ブルースカイ」と「ビューティフル・ボーイ」を見ていました。
父と息子、友情、そして山
映画が語っていることは見出しにもした、父と息子、友情、そして山ということなんですが、それらが映画の力としてあまり伝わってこない映画です。それらを語ってはいますがディテールが見えないという意味です。
また、画はそれぞれ美しいのですが、それをじっくり、ゆったり見せる手法ではなく、かなり速いテンポで説明的に切り替わっていきます。それに画像のアスペクト比が4:3のスタンダードサイズですのでどうしても左右に黒味ができてしまいます。黒味といっても最近は左右をマスクせずに上映するところが多いですのでビスタサイズに明かりが漏れ、さらにその横にスクリーン自体の余白がみえるという状態で映像の美しさが半減します。広がりのある自然を撮っているのになぜこのサイズを選択したのか疑問です。
物語は主人公のピエトロ12歳のパートと青年期以降に分かれており、一部回想があったかも知れませんが(記憶がない…)ほぼ時間軸通りに流れていきます。ですので、どうしても青年期以降が中心になるとは思いますが、ピエトロとブルーノの離れがたい友情やピエトロと父親ジョヴァンニの関係が描ききれていないように感じます。
今、映画.com のキャスト欄を見ましたら10代のピエトロとブルーノとあります。あの顔を合わせて頷きあったみたいなワンシーンのことですね。中途半端なシーンだなあと思ったシーンですが、別の俳優でしたか…(涙)。それに、その後すぐにやってくる父親ジョバンニの死も中途半端な感じでした。
という前半は原作をとんとんとんと説明しているような流れです。
ピエトロ、ブルーノ、ジョヴァンニ
映画の中の父親ジョヴァンニの存在感は薄いのですが、物語としては相当重要な存在だったようです。
父親ジョヴァンニは山好きで、モンテ・ローザの山々を制覇するためにその山麓に家を買い、自分は仕事のために時々しか来られないけれども、ピエトロと妻フランチェスカに夏の休暇を過ごさせていたということです。
そして、ピエトロはブルーノと出会い友情を育みます。ピエトロはトリノ育ちです。ブルーノは村の少年で叔父夫婦の家で羊飼いをしています。村は過疎地です。以前は何百軒あったが今は数軒(だったか…)だと言っていました。
父ジョヴァンニが村にやってきます。ピエトロも山に連れて行って欲しいと言い、ふたりで登ります。この時山頂でジョヴァンニが山頂の石積みの中に何かを入れているカットがあり、ん?と気になったのですが、映画の最後にわかります。ジョヴァンニは山登りの記録や日記的なものをノートに書きそれぞれ制覇した山頂の石の中に埋めていたのです。
山登りのシーンはもうワンシーンあり、その時はブルーノも一緒に行っています。氷河まで行くという登山です。子ども連れは危険だぞという村人の台詞がありましたがそのフォローもなく、結局ピエトロが高山病になり途中で断念しており、そのことがピエトロと父親の関係がまずくなる原因であるかのような流れになっています。
そしてもうひとつ、母フランチェスカがブルーノの叔母にジョヴァンニがブルーノの面倒をみたいと言っていると伝えますが、叔父がダメだといい、実現しません。また、そのことをピエトロはあんなクソつまらないトリノなんかに!と強い口調で非難します。
こういう描き方が重要な点をぼんやりさせてしまいます。このシーンには当事者がいません。フランチェスカは仮に本人の意志が入っているにしても基本は代理ですし、ダメだという叔父もいませんし、直接ブルーノの意志も確認していません。それにピエトロが強く否定することにもそうしてほしくない理由があるのだと思いますがそれが描かれません。
で、問題は、これらのことがとても重要なことだとわかるのは映画の終盤になってからなんです。
とにかく、その後、ピエトロは10代になり、父親との関係が悪くなりモンテ・ローザへ行かなくなるわけですが、実はその間、ジョヴァンニはブルーノを連れてモンテ・ローザの山々へ登っていたのです。そのことをピエトロは後に地図を見て知ります。地図には山々への登山ルートが3色で描かれており、ジョヴァンニとピエトロの2色は少なく、他のルートにはジョヴァンニとブルーノの2色で描かれているものが数多くあるのです。
それを知ったピエトロは、ブルーノの死後、父との隙間を埋めるようにひとりで父ジョヴァンニとブルーノが登ったルートを辿り地図のルートを3色で埋めていくのです。
ピエトロとブルーノ
12歳のシーン、ピエトロは都会の子ども、ブルーノは山の子どもという設定のようですが、あまりそうした印象は感じられず、また、生涯続く友情が育まれたようにも感じられずあっさりしています。一緒に戯れ遊ぶシーンがあるだけです。映画ではふたりが過ごすのは出会いの1年しか描かれませんが、多分何年かは一緒に過ごしたんだろうと思います。そうした友情の厚みが感じられません。
映画はジョヴァンニが亡くなった後を本編としているのでしょう。
父ジョヴァンニの死後、ピエトロが何年かぶりにモンテ・ローザを訪ねます。ブルーノはブロック職人(でいいのかな…)となっています。ピエトロはレストランの厨房で働いているシーンがありましたが定職ということではないのでしょう。
ピエトロはブルーノから父が山麓の土地を買い山小屋を建てることを考えていたと聞き、ふたりで意志を継ぎ建てることになります。
私がなにか見落としているのかも知れませんが、思い返してみてもなぜピエトロが訪ねてきたのか、またなぜ山小屋を建てることに同意したのかよくわかりません。この映画、原作がそうなっているからそう描いているみたいなことが多いように感じます。映画の中の人物の行動の動機があまり感じられずものごとが進みます。
とにかく何ヶ月か掛け(4ヶ月だったか…)山小屋が完成し、ある時、ピエトロが町の友人たちを連れてやってきます。ブルーノが加わった会話があり、多分価値観のズレからブルーノが気を悪くしたようですが、それもフォローがなくよくわからなく終わっています。また、その夜ピエトロと友人のひとりラーラが愛し合うシーンがあります。
後日、町で働くピエトロにブルーノから電話が入り、ラーラがやってきて酪農を手伝いたいと言っているがいいかと尋ねます。ピエトロは特別な関係はないと答えます。
余計なことですが、こんなシーン、やめちゃえばいいのにと思います。山小屋のピエトロとラーラのシーンもそうですがごちゃごちゃするだけです。
とにかく、ブルーノとラーラは酪農業を始め結婚し子どもも生まれます。ピエトロはブルーノにお前は自分の道をみつけたが自分は今も何も出来ていないと言い、世界中を旅します。そしてネパールで居場所をみつけ、ひとりの女性と出会います。
この女性の扱いも中途半端です。学校の教師のような何かをしている女性ですがまったく何も語られません。ヨーロッパ映画には結構多いのですが、アジアを旅するシーンは単に背景としてしか使われません。その後ピエトロはネパールに戻るかどうかも曖昧なんですから、この女性のこともそうですが、言葉の通じない夫婦とのやり取りなど入れなければいいのにと思います。
とにかく(が多い…)、ブルーノの酪農業がうまくいかなくなり借金がかさんできます。ラーラは子どもを連れてブルーノのもとを離れます。ピエトロが援助を申し出ますがブルーノは拒否し、酪農業は差し押さえられます。
ブルーノはひとりで山小屋に住み始めます。ピエトロは町で仕事を探すことを勧めますが、ブルーノは自分にはここで暮らす以外の道はないと答えます。そして、冬、大雪で山小屋が埋まっています。ヘリコプターで救助隊が駆けつけ、屋根を破り小屋の中に下りますがブルーノは見つかりません。
そして、春(だと思う…)、雪山の斜面に横たわる人らしき影が見えます。周りに数羽のカラスがその黒い影をついばんでいます。それはピエトロがネパールで聞いた話をブルーノにしていた鳥葬のようにもみえます。
Le otto montagne(The Eight Mountains, 8つの山)のタイトルも、その時ピエトロがネパールで聞いた須弥山世界観を8つの山の話としてブルーノにしたことからとられています。興味のある方はウィキペディアでもどうぞ。
その後のピエトロ
どういう流れで次に進んだかは記憶していませんが、ピエトロは父親ジョヴァンニがブルーノを自分の息子のように思い、あるいは自分から去っていったピエトロの代わりのように感じ、ともにモンテ・ローザの山々を登り尽くしていたことを知り、ひとりでその登山ルートをめぐり、父ジョヴァンニが山々の山頂に埋めた日記を取り出して読み、父ともに最も親しき友人ブルーノのことを思うのです。
ピエトロは作家として世に出ているということがどこかで語られていました。
ということで、映画は原作にとらわれすぎているのか説明的なカットやシーンの連なりのようになっています。連名となっている監督、脚本のうちのひとり、フェリックス・ヴァン・ヒュルーニンゲン監督の「オーバー・ザ・ブルースカイ」「ビューティフル・ボーイ」を知る限りではむしろドラマを語る監督だと思いますが、この映画ではずいぶん印象が異なっています。ただ、この監督にはどこか無常観のようなものへのこだわりがあることはこの映画にも感じられます。
これは映画よりも原作を読むべき話だと思います。