ガール・ウィズ・ニードル

ホラー要素を持った社会派ドラマが狙いらしい…

第一次世界大戦前後のデンマークで起きた連続殺人事件が基になっている映画です。

上の一行、最初はさすがに一行目からネタバレはまずいなあと思い連続殺人事件のところを実話と書いていたのですが、今日本の公式サイトを見ましたらはっきりと書いてありました(笑)。ああ、チラシにも書いてありますね。

私は何も知らずに見ましたので、え? こんな話だったの? とちょっと驚きました。

ガール・ウィズ・ニードル / 監督:マグヌス・フォン・ホーン

この映画、どこに向かおうとしているの?…

驚いたのは殺人事件そのものにではなく、この映画、中盤になっても一体どこに向かっているのかはっきりせず、さほどそれ自体に重きを置いているようにも感じられないままに殺人が明らかにされ、え、そっち? みたいに意表を突かれた驚きのほうが大きいです。

それに、キービジュアルの印象からパヴェウ・パヴリコフスキ監督の「イーダ」みたいな静謐な印象の映画を想像していたことも影響しているかも知れません。

とにかくこの映画、向かっている(と思われる…)先がころころと変わり、最後まで掴みどころがない映画なんです。もし連続殺人事件を軸に描こうとしたのならば出してくるのが遅すぎるということです。

まず、1/3くらいまでは縫製工場で働くカロリーネ(ヴィクトーリア・カーメン・ソネ)が戦争から戻ってきた夫をも裏切って工場の経営者の妻となることを望むという、その先に挫折、悔恨といったカロリーネの葛藤を予想させ、そして中盤になりますと、予想通りカロリーネは経営者の裏切りにあい、さらに子どもまで身ごもっているという負のスパイラルが描かれていくわけですが、意外にもカロリーネはタフに生きていきますので貧困の中でも強く生きていく女性の映画かなと思っていますと、映画残り1/3くらいになり、やっと主要テーマ(その時はわからなかった…)の人物のダウマ(トリーネ・デュアホルム)が登場し、ただそれでも闇の養子縁組そのものが強く浮かび上がってくるわけではなく、カロリーネとダウマと、そして一緒に暮らしている幼いイレーネの人間関係に思わせぶりなシーンが目につき、それがテーマかと思っていた矢先、あっけなくダウマは逮捕され裁判シーンまで描かれるという映画なんです。

それにしてもその後に続くエンディング、いくら償いだとしても7人も養子にしようとするカロリーネというのはドラマとしても説得力がありませんし、さらにイレーネがカロリーネに喜びで飛びついてくることも、またそのラストカットのイレーネの笑顔もなんだかもやもやする終わり方になっています。

という焦点の定まっていないとらえどころのない映画です。

この映画、受賞はありませんでしたが昨年2024年のカンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品されています。監督は、スウェーデン生まれでポーランド在住のマグヌス・フォン・ホーン監督、現在41歳の方です。

ホラー要素を持った社会派ドラマが狙い…

なぜこうなっちゃったのと思い、マグヌス・フォン・ホーン監督のインタビュー記事を読んでみますとこんなことを語っています。

We wanted to make a film that is on the edge between drama and horror and plays with the audience’s expectations.

私たちはドラマとホラーの境界線上にあって観客の期待を掻き立てる映画をつくりたかったのです。

Seventh Row:Interview: Magnus von Horn on The Girl with the Needle

ということらしく、期待を掻き立てられるかどうかは置くとして、狙いがホラー要素を持った社会派ドラマだということには納得がいくコメントです。

実際にあった連続殺人事件というのは「ダグマー・オーバーバイ事件」というもので、ウィキペディアによれば1913年から1920年の7年間に自分の子ども1人を含む9人から25人の子どもを殺害したということです。人数が確定していないのは9人については有罪判決が出ているものの他は証拠不十分だったみたいです。逮捕されたときの年齢は33歳くらいです。

判決は死刑判決でしたがその後終身刑に減刑され、そして1929年に42歳で獄死しているとのことです。

カロリーネに共感できるか…

また、マグヌス・フォン・ホーン監督はこんなことも語っています。

We wanted to make a story with a relatable main character. So we didn’t want to pick Dagmar as the main character. We went into this world of fiction and developed the story of our main character, who is one of the mothers who gives her child to Dagmar. Her story reveals a lot of social aspects of the world she lives in, which puts her in a difficult position which is why she ends up at Dagmar’s place.

私たちは共感のできる主人公の物語とするためにダグマーを主人公にすることは考えませんでした。ですから、ダグマーに子どもを預ける母親のひとりとなる主人公(カロリーネ)を創造したのです。カロリーネの物語は彼女の住む世界が抱える様々の問題を明らかにし、その困難さが彼女をダグマーのもとに向かわせることになったのです。

Seventh Row:Interview: Magnus von Horn on The Girl with the Needle

たしかに物語の展開という点ではそのように出来ています。ただ、そうしますと問題は映画が主人公であるカロリーネに共感できるようにつくられているかということになりますので、その点で言えば、それこそ共感できるかどうかは百人百様、見る人それぞれであるにしても、カロリーネの行動にはえ? と思う判断や行動が多いように感じます。

映画はカロリーネが家を追い出されるところから始まります。大家は家賃を14ヶ月滞納していると言っています。理由は語られていませんが、夫が戦争にとられて行方知れずであることと働いている縫製工場の賃金では生活できないということだろうと想像できます。

100年前の価値観を想像するのはかなり難しいのですが、それでも14ヶ月も滞納されれば退去を迫る大家を責めることはできないでしょう。それにカロリーヌに泣いてすがれとは言いませんが、描き方として、滞納の原因がどこにあるのか、戦争のことであるとか、賃金が低いとかに目がいくように描かないと共感は難しいのではないでしょうか。

カロリーネは工場経営者の男爵に援助しようかと言われ受け入れます。このあたり、段取りとしてしか描かれていませんので二人の心情はわかりませんが、男爵の方は単純に自立心のないマザコン男として描かれ、カロリーネの方はこの時代、男の庇護下でしか生きていいけない女という描き方かと思います。

問題は夫が戦争から帰還したときのカロリーネです。カロリーネは端からあなたはもう夫でもない、わたしは男爵と結婚するのと未練なく突っぱねます。出ていって!と叫んでいました。夫は戦争で顔を負傷してその損傷をマスクで隠しているわけですが、それが理由で拒むわけではなく、あくまでもより良い生活環境を求めているだけという描き方です。

現代的価値観で言えば、共感することはかなり難しいカロリーネです。せめて悩んでよと思いますけどね。

カロリーネの心情が読めない…

カロリーネは男爵の子どもを身ごもり、また男爵も結婚を受け入れているのですが、あっけなく男爵の母親に拒否され追い返されます。

物語の流れ的には悲嘆に暮れるカロリーネということかとは思いますが、意図していることかどうかはわからないもののそうした描き方は一切されておらず、それでもシーンとしてはカロリーネが公衆浴場で編み針を使って堕胎しようとすることになります。ここで初めてダウマ(実話のダグマー…)が登場します。カロリーネを救い、子どもが生まれたらうちに来なさいと名刺を渡して去っていきます。

これでダウマに焦点が当てられて進むかといいますとそうではありません。その後カロリーネは出産し、そしてある日、町で見かけた見世物小屋に入ります。フリークショーです。司会者が世にもおぞましき人間をご覧あれなどと煽り、仮面をした男が登場します。男が仮面を取りますと顔半分が陥没し歪んだ唇が顕になります。カロリーネの夫です。戦争で損傷を負った顔を晒すことで生活の糧を得ているのです。

司会者がこの醜い男に触ってみる勇気のある者はいないかとさらに煽ります。カロリーネが手を上げます。ステージに上ったカロリーネは夫の顔に触れ、さらに司会者に言われてキスをします。

この一連のシーンで何をしたいのかがよくわからないんですね。演出意図なのか俳優の持ち味なのかわかりませんがカロリーネは感情がほとんど顔に現れないのです。男爵に裏切られたときもそうですし、堕胎しようとしたときも、そしてこのシーンでもその内面が読み取れないんです。この後、カロリーネと夫は一緒に暮らすことになるわけですので、行動だけ見ていますと、単に男爵に裏切られたから再び夫のもとに戻ったとしか見えず、夫への愛情があるとかないとかとは別次元の行動にしか見えません。フリークショーでのキスにしても自らするのであればそこにカロリーネの気持ちを読み取ることもできるのですが、司会に促されてしているキスなんです。

更にわけがわからなくなることが起きます。夫は子どもの存在を喜びますが、カロリーネはあなたの子どもではないと言い、ふたりの子どもをつくりたいと持ちかけます。夫は不能だと答えます。そしてある日、夫が出かけている隙にカロリーネは子どもを抱いて出ていってしまいます。行き違いにどこからか乳母車を手に入れてきた夫が階段を上がっていきます。

どういうこと? カロリーネは一体何がしたいの?

ホラー一本でいったほうがいい…

この後、カロリーネはダウマのもとに向かうわけですが、これまでのカロリーネの行動からマグヌス・フォン・ホーン監督が語っている「a lot of social aspects of the world she lives in, カロリーネの住む世界の多くの社会的な問題」が明らかになり、カロリーネがダウマのもとに行かざるを得ない「a difficult position 難しい立場」に置かれているように見えてくるのでしょうか。

これは映画ですのであくまでもどう描かれどう見えるかという話で、当時の女性がどういう立場に置かれていたかを言っているのではありません。男たちが戦争にとられ、不足した労働力として女性たちが駆り出されて男たちとは異なった賃金体型で働かされていたことは歴史上明らかですし、そもそも女性の社会的立場といった概念もあったかどうか疑わしく男性の従属物という価値観の社会だったと考えられます。

描かれていなくてもそれを前提にというのでは映画になりません。私にはカロリーネは20世紀初頭の女性ではなく現代の女性に見えますけどね。

とにかく、カロリーネはダウマに赤ん坊を預けます。そしてなぜか同居することになります。これもよくわかりません。預かった赤ん坊にカロリーネの母乳を与えることが強調されているように感じます。実際、おそらく6,7歳にはなっているであろうイレーネに母乳を与えるシーンがありますし、イレーネ自体もそれを望んでいるような描き方がされています。

6,7歳の大きな子どもを膝の上に抱えて乳を吸わせるカロリーネのシーンはとても奇異に感じられます。それにダウマのカロリーネへの対し方に同性愛的なしぐさを感じましたので、その後明らかになるダウマの赤ん坊殺しのシーンを見てもなお、私はカロリーネとダウマの関係が描かれていくんだろうと思っていました。

ということで、とんでもないことにカロリーネは預かったばかりの赤ん坊殺しの共犯にさせられます。赤ん坊の母親が思い直して返してほしいとやってきたことからダウマは逮捕され、カロリーネは窓から飛び降りて自殺します。イレーネは孤児院に預けられます。

さらにこの後もいろいろあります。まずカロリーネは生きていました。そして見世物小屋の夫に同行して暮らします。ダウマの裁判があり、傍聴席の女性たちの非難を浴びながらもダウマは持論を展開します。後日、孤児院ではカロリーネが7人の子どもを引き取りたいと申し出ています。やってきたイレーネはカロリーネを見るや飛びついてきます。熱く抱擁するカロリーネ、にやりとするイレーネのアップで終わっていたと思います。

私にはニヤリと見えてしまったということです。

ホラーかドラマ、どちらかひとつにしたほうがいいと思います。ならばホラーでしょう。