パワー・オブ・ザ・ドッグ

犬は男?うさぎは女?隠されたセクシュアリティ

「ピアノ・レッスン」のジェーン・カンピオン監督です。今年2021年のヴェネチアで最優秀監督賞(銀熊賞)を受賞しています。

そう言えば随分名前を耳にしていないなあとウィキペディアを見てみましたら、12年ぶりの監督作品とのことです。私は「ピアノ・レッスン」以来かもしれません。

「トップ・オブ・ザ・レイク」という2013年のテレビドラマが評論家に絶賛とあります。興味はありますが、連続ドラマというスタイルが苦手ですので多分見ないと思います。

パワー・オブ・ザ・ドッグ

パワー・オブ・ザ・ドッグ / 監督:ジェーン・カンピオン

原作を描ききれていないかも

ウィキペディアによれば評論家から絶賛されているとのことですが、私は、なにか描ききれていないものがあるような煮えきらなさを感じます。

自然の持つ魔術的な力を感じさせる映像、それにより人間の心の奥底のなにかが呼び覚ませれるような物語の運び方、その積み重ねによる緊迫感の作り出し方、やはりとてもうまい監督だと思います。最後まで集中して見られます。

なのに見終えたあとにモヤモヤしたものが残ります。もっとはっきりさせてもいいように思います。

ブロンコ・ヘンリーとフィル、フィルとピーター

原作を読んでいませんので映画から感じたことでしかありませんが、まず映画の基本的な軸は、ブロンコ・ヘンリーとフィル(ベネディクト・カンバーバッチ)との関係がフィルとピーター(コディ・スミット=マクフィー)の関係に繰り返される(かも知れない)ということだと思います。

おそらく若きフィルは映画のピーターのような存在だったのでしょう。ピーターはフィルたちカウボーイに男らしくない、女々しい(意図的に使っています)としきりに揶揄されています。

同じような存在であった(だろう)フィルはブロンコ・ヘンリーとの出会いによって「男らしく」生まれ変わります。しかしそれは「男らしくないもの=弱さとみられるもの」を心の奥底に抑圧した「強さ」であり、その矛盾が屈折した感情となってローズへの変質的な(というほど映画では描かれていないが)排斥行動となって現れるのだと思います。

フィルとブロンコ・ヘンリーには性的関係もあったと考えるの自然です。映画はそのことを避けるようにしていますのではっきりしませんが、同じようにフィルとピーターも、あの夜、性的関係に進んでいると思います。ただ、それが同意された行為であったのか、あるいはそうではなく完結せずにそれゆえにフィルは殺されたのかはわかりませんが、さらに想像すれば、ブロンコ・ヘンリーが縊死自殺したのは、フィルと性的関係をもったことを「男としての自尊心」から耐え難かったと考えるのもまた自然なことだと思います。

この物語にはそうしたセクシュアリティについてのテーマがあります。映画はそれに対して曖昧に逃げています。

また、フィルに「男らしさ=強さ、高圧さ」と「女らしさ=弱さ、優しさ」の同居として現れているジェンダーの葛藤が描ききれていません。

フィルとジョージ

原作は1967年の作品ですので家族や兄弟という関係に触れているところも多いのではないかと思います。

フィルとジョージ(ジェシー・プレモンス)の兄弟はベッドを並べて同じ部屋で寝起きしています。牛を移動させる(映画での目的はよくわからなかった)旅先ではひとつダブルベッドで寝ています。

この異様な関係がいまいちはっきりしていません。

それにフィルはエール(イェール)大学(だったか?)出のいわゆる秀才です。ジョージが両親や州知事を招いたディナー(結婚披露?)シーンで、フィルがいないと間が持たない(話が続かない)と言っていましたが、そうしたフィルのキャラクターが描ききれておらず弱すぎますし、フィルとジョージの兄弟間の濃密(であるだろう)関係が描ききれていません。

フィルとローズ

ローズ(キルスティン・ダンスト)はフィルからの執拗な排斥行動を受けてアルコール依存となり、精神不安定状態になっていくわけですが、映画的にはフィルの排斥行動が物足りません。それゆえ、ローズの露出が多い割に映画の流れの中にうまく収まっていません。かなり浮いています。

フィルがジョージに嫉妬し、ローズへの性的欲望を持つという流れは映画的にはありそうですが、それは感じられませんでしたのでおそらく原作にもないのでしょう。

としますと、フィルがなぜローズを排除しようとするのかがよくわかりません。兄弟間に割り込む異物ということであれば、やはりフィルとジョージの関係が描ききれていませんし、嫉妬であれば、フィルとローズのシーンが足りなさ過ぎます。

現実にはよくわからなくてもあり得ることですが、これは映画ですのでもそうしたものをある程度はっきりさせていかないと映画に強さが生まれません。

フィルとピーター

これもおそらくですが、フィルがピーターに興味をもった瞬間はピーターに自分自身を見たことじゃないかと思います。それが映画的には一番しっくりきます。

わたしが見落としているかも知れませんが、映画ではその瞬間がはっきりしません。山並みに犬の遠吠え(だったか?)が見えるというピーターの言葉がありましたが、あれがその瞬間だったのでしょうか。早い段階でフィルがカウボーイたちに山並みになにが見えると話すシーンがありましたので、これが映画の重要な要素だとは思いますが、その山並みとフィルの隠れ家のような場所でのいくつかのシーンがうまく結びつきません。

タイトルが「The Power of the Dog」ですので何か深いものがあるようには思いますが、「犬」がよくわかりません。おそらくピーターが解剖したりする「うさぎ」は「女性」を象徴させているのだと思います。そうしますと、「犬」は「男性」の象徴ということになるのかもしれません。

炭疽病

フィルの死因が炭疽病ということであれば、フィルはピーターに殺されたのでしょう。

かなり早い段階から炭疽病で死ぬ牛の話が出てきますし、ピーターが倒れている牛、炭疽病だと思いますがその牛を解剖するシーンがあり、フィルが牛を去勢するシーンで手に怪我をし、それがピーターとのシーンでもアップで強調されていることを考えれば、何らかの方法によりピーターはフィルの傷口に牛のなにかを擦り込んだのでしょう。

ああ、ピーターが晒した革が取ってあると言っていたのは炭疽病で死んだ牛の革ですね。その革でロープを編んだがためにフィルは炭疽病でなくなったということになります。

ピーターの行為は母のためか

これが最も煮えきらないことです。

映画冒頭に「母を守る」といったピーターのナレーションが入っています。であれば、ピーターは母ローズのために炭疽病の牛の革を使ってフィルを殺したということになります。

ただ、これですと単なる復讐物語で一気に映画がつまらなくなります。それに、これが映画の最も重要な軸だとすれば、ローズとピーターの関係描写が足りなさ過ぎます。

やはり、重要な軸はフィルとピーターに反映されたブロンコ・ヘンリーとフィルの関係でしょう。

結局、俳優のアンサンブルがよくない

最初に書きましたように、全体を通して緊迫感が満ち溢れて見応えはあります。それゆえにこそ、肩透かしを食らったような感じが残ります。

撮影がコロナ禍で中断しているようですので、完成までには俳優のスケジュール調整も大変だったのではないかと想像します。

振り返ってみますと、この映画、たとえばフィルのローズへの排斥シーン少なすぎる上にジョージが絡むシーンがほとんどありません。また、ローズとピーターのシーンもほとんどありません。一同に会するシーンもローズのレストランにフィルとジョージがやってくる最初のシーンだけです。

こうした物語に必要な俳優間のアンサンブルが不足しているのが煮えきらない映画になっている原因ではないかと思います。

ピアノ・レッスン (字幕版)