父と息子の軋轢と邂逅ではなく男たちの諦観の物語
189分、およそ3時間の映画です。前作の「雪の轍」が196分ですので、ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督にはこの長さがないと語りきれないということなんでしょう。
前作では人の業のようなものを延々語ったものの、最後は割と簡単に人と人がわかり会えるような結末で終えていましたが、この映画はどうなんでしょう?
と、ちょっとばかり嫌味の入ったリードになってしまいました(笑)。
舞台はトルコのチャナッカレです。トロイの古代遺跡とされている世界遺産があるところということです。
シナン(アイドゥン・ドウ・デミルコル)が大学を卒業して故郷に戻ってくるところから始まり、そこは山あいの村という印象でしたので、おそらく大学はチャナッカレにあり、バスで90分くらいの村が故郷ということなんだと思います。
物語は単純です。
シナンは作家志望で、実際に処女作を書き上げ出版したいと思っています。しかし当然ながら現実は厳しく、教師の道に進むか、兵役につくかと迷っており、仮に教師になったとしてもトルコ東部(テロの危険があるといっていた)に赴任することになるだろうと、作家になる夢を諦めずにいます。
ところで、字幕では兵役についてシナンが迷っているようなニュアンス(見間違いでなければ)がありましたが、実際にはトルコには徴兵制があるようで、映画の中にもワンシーンだけシナンの兵士姿の場面があり、おそらくそれは12ヶ月の兵役なんだろうと思います。
シナンの父親(ムラト・ジェムジル)は村の学校(小学校?)で教師をしており定年間近です。以前は皆に信頼される人物だったようですが、いつからか競馬にはまってしまい、借金を重ね、今では給料が借金の返済に回ってしまっています。映画の後半では家の電気まで止められてしまうという有様です。
これ、今の日本の感覚ですと完全に家庭崩壊で傷害事件が起きても不思議ではない状態なんですが、シナンを始め母親も妹もなにか行動を起こすことはなく、母親にいたっては、昔はいい人だったのよ的にシナンにのろけたりします。
シナンも多くの場合、よそ事のような素振りを見せています。父親のような人間にはなりたくないと言っていたように思いますが、かと言って軽蔑しているようには描かれていません。
実際、映画は、いろいろあるにしても最後はシナンも父親と同じ道を歩むだろうことを示唆して終えています。
公式サイトには「父と息子の軋轢と邂逅」などという言葉が使われていますが、言い争いがあるわけでもなく、親子関係が崩壊する気配もありません。
そういう映画ではないということでしょう。
シナンは父親の生き様を疎ましく思いながらも、結局父親と同じ道を歩むことになってしまう(運命)、あるいはそれしか道がない(社会)、あるいは人の道とはそうしたもの(諦観)と悟る話なんだろうと思います。
「運命」あるいは「諦観」という意味ではイスラムの宗教観からくるものかも知れませんし、「社会」という意味では若者に仕事がないという現実があるのでしょう。
シナンの作家への道は社会への反抗という意味もあると思われます。
たまたま書店で著名な作家に出会い話しかけます。コネを得るためかと思いきや、とんでもなかったです。しきりに挑発し喧嘩を売っていました。
その挑発の仕方があまりにも老獪でとても20代の若者の思考ではなかったです。なかなか意図がつかみにくいシーンではありますが、おそらく脚本や監督の価値観からの台詞だと思います。
自作の小説出版への援助を求めての町長との会話や援助者との会話も喧嘩を売りはしませんがほぼ同様で、なぜ自分が認められないのかとの怒りが心の奥底に感じられます。
これらをシナンが社会に向かって喧嘩(論争)をふっかけていると考えれば、この映画もまた違った見え方がしてきます。
典型的なシーンがイスラムの導師との論争です。これもシナンが意図的にふっかけています。かなり長いシーンで、山間を歩きながらいつ果てるともなく続くという印象です。
論争のポイントは「聖」と「俗」でしょう。
こんな会話がありました。神を信じなくても犯罪が少ない国があるというシナンに対し、導師が犯罪は少なくても自殺者が多いと答えるところがあり、オイオイ日本のことか? と心のなかでツッコミを入れていました(笑)。
前半にあった同級生の女性ハティジェとの会話も見方を変えれば違ったものが見えてきます。
久しぶりに会ったふたりはこれからどうするの?と話し始め、こんな村で腐っていきたくないというシナンに、ハティジェは私は腐っていくの?とややむっとしつつ、宝石商と結婚する、それしか自分には道はないと言います。
このハティジェがどうだかはわかりませんが、イスラムでは父親が娘の結婚相手も決めるということです。後にハティジェの結婚式シーンを離れたところから見ているといったシーンがありましたので、決して祝福ではなく否定的な意味合いがあるのだろうと思います。ただ、映画は女性のことにほとんど興味を持っていません。
で、シナンの小説ですが、誰からも援助を得ることはできなく自費出版します。その資金は父親の愛犬を無断で売ってしまうことで得ます。父親にだけは論争を吹っかけないシナンなりの父親への反抗でしょう。
小説は本屋に置いてもらうも一冊も売れません。母親や妹に読んだかと尋ねるも途中までは…と興味を持った素振りも見せません。
そして兵役のシーンがあり、シナンが再び故郷に戻ってきます。父親は定年を迎え、山小屋のようなところで羊を飼いひとりで暮らしています。
小屋を訪ねたシナンはそこに自分の小説『野生の梨の木』を見つけます。そして横に置かれた財布を見ますとお金は入っていませんが、その中にシナンが小説を出版した際の新聞記事が大切に折りたたんでしまわれているのです。
小屋の前での父親との会話。
シナンが(無理やり手伝わされていた)井戸掘りはどうしたの? と尋ねますと、父親は水は出なかった、自分が間違っていた、村人たちが正しかったと答えます。
やや時間が経ち父親が見当たらないシナンを探しますと井戸から音がします。井戸を覗く父親、そこにはつるはしを振り下ろすシナンの姿があります。
こんな感傷的でいいのか? というオチの映画でした。
反抗はしてみたものの「運命」にも「社会」にも抗えず、「諦観」する(ふりをする)ことでしか「個」を保ち得ない「男」たちの物語ということなんでしょう。