ともしび

なしのただシャーロット・ランプリングを見続ける映画

一昨年、2017年のヴェネツィア映画祭でシャーロット・ランプリングさんが主演女優賞を受賞しています。

ともしび

ともしび / 監督:アンドレア・パラオロ

シャーロット・ランプリングさんの肖像画を90分間見続けるような映画です。

映画は物語を語ることを拒否しており、ただひたすらアンナ(シャーロット・ランプリング)を撮ることに徹しています。アンナが何かを見て何らかの感情を持ったとしても、カメラはその何かを撮ることはせず、アンナの表情から読み取れと挑戦的です。

無理ですね(笑)。

人間、そんなに人の心の中を読み取れるものじゃないですよ。ましてや映画ですよ、アンナは俳優によって演じられているわけです、それを(つくり手が拒否しているものを)一生懸命読み取ったって意味がありません。感じさせてくれなきゃ。それに、映画の最初と最後のシャーロット・ランプリングさんの画を比べてもおそらく何も変わっていないと思います。

ただこうした手法もドキュメンタリーなら別で、シャーロット・ランプリングさんがシャーロット・ランプリングさんとしてそこに存在し、仮に染み付いた俳優としての演技がそこにあったとしても、映画がドキュメンタリーをうたっているのであればまた見方は変わります。

人間はほとんど場合、モノやコトを物語の文脈で理解しようとします。ある人物を理解しようとする場合、その人の見た目から入り、日々語ることを聞き、その生活や過去や未来(希望)を知ることによってしかその人を知ることはできません。

この映画はアンナに何も語らせようとせず、アンナに何が起きているかを意図的に隠そうとしています。その意味では実験的ではあるのでしょうが、そんなことをするのであれば、実生活を生きている人物を探して撮りたいと思う人を撮ればいいように思います。

映画がちらちらと意味深に見せてくれることによれば、アンナは夫と暮らしており、夫は、何か子ども絡みの事件で逮捕ではなく自ら出頭し収監されます。アンナは自己啓発セミナーのようなグループに参加して、夫が収監された後も同じように通っています。また、家政婦として働いており、その仕事先の家には障害のある子どもがいます。アンナ夫婦には子どもも孫もいますが、会うことを拒否されています。

こんなところでしょうか、そうしたアンアの日常をひたすら撮り続け、ラスト近くで、アンナが家のタンスの裏側から封筒に入った写真を見つけ、夫の面会の際に「見つけたわよ」と言い、夫は一瞬アンナを見つめたもののそのまま面会室から出ていきます。

何の写真かは教えてくれません(笑)。

で、ラストシーン、地下鉄の駅に立つアンナを後ろから捉えたカットがかなり長くあります。近づく列車の音。そしてアンナは…。

私は自殺するのかと思いました。

で、公式サイトを読んでみましたら、

『ともしび』は、老境に入って、ささやかで平穏な日常、家族との結びつきを根こそぎ奪い取られてしまったヒロインが、絶望の淵から生還し、ふたたび“生きなおす”決意を遂げる感動的なドラマである。

とのことです。

私が感じたことと真逆じゃないですか!? ん? 自殺しなかったから「生きなおす」ってこと?

だから、ちょっとは物語を語りなさいと言ったじゃないですか、という映画です。

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