トリとロキタ

ダルデンヌ兄弟監督がドキュメンタリ作家の原点に帰ったような劇映画

1999年の「ロゼッタ」以降すべて見てきているジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ兄弟監督です。このサイト内では新しい方から「その手に触れるまで」「午後8時の訪問者」「サンドラの週末」「少年と自転車」について書いています。

という、ほぼすべてのドラマ作品を見てきた中でもこの「トリとロキタ」が一番すごいかも知れません。いろんな意味でです。なお、以下、いきなりネタバレしています。

トリとロキタ / 監督:ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ

容赦ない無機質な暴力…

単純な暴行という意味の暴力ではありませんが、アフリカからの移民トリとロキタに容赦ない、そして救いのない暴力が降り注ぎ続けます。そしてラスト、ロキタは究極の暴力行為で撃ち殺されます。殺す側に何の感情の動きもなくです。

そうした無慈悲な殺害シーンをもつ映画はたくさんありますが、ダルデンヌ兄弟の映画は違います。ドラマであってもドラマじゃないんです。90分間胃がキリキリしっぱなしです。そしてこのラストです。これまでのダルデンヌ兄弟の映画にはなかった衝撃的なシーンです。

ベルギーのリエージュ、ベナン出身のトリとカメルーン出身のロキタはアフリカからヨーロッパに渡る途中に知り合い(本当かどうかわからないが…)、今は姉弟と偽って保護施設で暮らしています。トリは生まれ故郷では「不吉な子ども」として迫害にあっており難民として受け入れられています。ロキタは国の家族への仕送り目的で仲介業者を介して密入国しています。ロキタはビザ取得のためにトリが弟であることを証明しなくてはいけません。しかし嘘を見抜かれビザは下りません。

二人はロキタの仕送りのために麻薬密売の運び屋をやっています。しかし、稼いだお金も仲介業者に巻き上げられてしまいます。国の母親に泣きながら事情を話すロキタ、しかし母親は冷たく突き放し仕送りを求めるばかりです。

ビザがなければ正当には稼げません。ロキタは偽造ビザを手に入れるためにさらに危険な道に入っていきます。3ヶ月間の約束で何をするかも知らされないまま目隠しをされて鍵のかけられた倉庫に連れて行かれます。大麻の栽培工場です。

揺るぎない友情は状況を打開できるか…

映画の冒頭、ロキタのバストショットから始まります。ビザを申請するためにトリが弟であることを証明するよう担当者から質問が浴びせられています。何度もトリと想定質問を練習してきたようですが、答えに失敗し、ロキタはパニック障害を起こしています。

もちろん、質問を投げかける担当者に悪意があるわけでもなく、またロキタには保護施設の職員もついています。でも、映画はロキタがかわいそうだからといって手を差し伸べるわけではありません。それが現実です。一個人の感傷的な行動でどうにかなることではないということです。こうしたケースでは何もしない社会でさえ暴力になるということです。

それゆえトリとロキタのつながりはとても強いものです。監禁状態で大麻栽培工場で働くことになったロキタはトリと話したいと密売グループに願い出ますが、スマホのSIMを抜かれて通信することが出来ません。食い下がるロキタですがパニック障害を起こします。密売グループは約束はするものの果たされることはありません。

トリが行動を起こします。大麻栽培工場の在り処を探し出し忍び込みロキタと再会します。ロキタにもトリにもひとときの安らぎの時間です。二人は工場から大麻を盗みひそかに売買することを思いつきます。

その企てはうまくいくのですが、次にトリが工場に忍び込んだとき密売グループに見つかってしまいます。なんとか逃げ出したものの、運悪く見つかってしまい、追い詰められたロキタは密売グループの究極の暴力行為で射殺されてしまいます。

後日、教会でのロキタの葬儀、トリは「ただビザを得て働いて仕送りして二人でアパートを借りて暮らしたかった」(というような内容でした…)と別れの言葉を語ります。

見る者には社会の強い暴力性が感じられる映画なんですが、監督たちはこんなコメントを残しています。

私たち監督に課せられた課題は、サスペンス映画や冒険映画から引用したプロットの中でふたりの主人公の相互扶助と優しさを映し出し、他者を救うために自己犠牲を払うほど極限まで発展する友情を描くことでした。

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なぜこんな映画が撮れるのだろう…

ダルデンヌ兄弟監督の映画を見ますと毎回なぜこんな映画が撮れるのだろうと思います。

監督のコメント通りでプロット自体は特に新鮮なものではありません。クライム映画にはよく使われるものです。でも、追う対象が違いますし、多くの場合、追う対象以外の人物やその背景を描くことはほとんどありません。

この映画で言えば、密売組織の窓口となっているイタリアンレストランの料理人は二人とのやり取り以外のシーンはありませんし、二人にそっけなく対するだけです。犯罪組織と同様に語るのもなんですが、保護施設のスタッフも二人とのシーン以外には登場しませんし、ビザ取得の面接官にいたっては声だけです。

そうした描き方によって、トリとロキタの二人とそれ以外のもの、人もそうですし、結局社会総体ということになりますが、それらが切り離されて見えてきます。社会がとても冷たく見え、トリとロキタの孤立感が際立ってきます。

この映画はこの点が徹底しており、それゆえにあの結末を導かざるを得なかったのではないかと思います。

演技者が映画の中に生きること

トリとロキタを演じている二人には演技経験はないそうです。ロキタを演じているジョエリー・ムブンドゥさんは俳優を目指している18歳とありますが当然ながら無名ですし、トリのパブロ・シルズくんに関しては何の情報もありません。

監督のコメントを引用しますと、

主人公の年齢設定もあり、プロの俳優は起用しませんでした。そのため、キャスティングには長い時間を要しました。他の役についても、観客が作品のあらすじに勘づいてしまわないような、有名人でないことが重要でした。

私たちは、前触れもなく風が突然吹きつけることができるような、照明とロケーションに関心があります。そうすることで、不意打ちのように、トリとロキタの友情を目の前に出現させることができるのです。

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後半にある「不意打ちのようにトリとロキタの友情を目の前に出現させる」というくだりがダルデンヌ兄弟監督の映画づくりのキーポイントかと思います。

海外のインタビュー記事にそのあたりについてもっと突っ込んだ話をしているものがありました。演技経験のない子どもたちとの映画づくりはどうだったかと聞かれ、

Usually, when we’re working with inexperienced non-actors or previously unexperienced performers, we try to avoid showing them how to do something.The danger is that [if] you show the inexperienced person how to do something they’re then going to fall into imitation rather than incarnating the character and translating it through organically.

Where You Find Humanity: An interview with the Dardenne brothers

「どうすればいいかを見せないようにしている」と答え、それをしてしまうと、演技者は自ら有機的にその人物ならどうするかを考えることなく模倣になってしまう(意訳)と言います。

この「トリとロキタ」はその演出手法がほぼ完璧に機能しています。

ヨーロッパの移民問題

上にも引用している日本の公式サイトの監督コメントではトリとロキタの友情がこの映画のテーマであると語っています(再構成されていると思う…)が、それはトリとロキタにとってみればそれしか拠り所がないということであり、やはり映画の基本的なテーマは移民の問題であり、さらにこの映画では移民が未成年者ですのでより問題が複雑化します。

移民、難民については日本には日本の問題がありますが、やはりヨーロッパは日本に暮らす私などには実感できない現実的で日常的な問題なんだとあらためて感じます。

監督コメントは次のように締めくくられています。

このふたりの若い亡命者とその揺るぎない友情に深い共感を覚えた観客が、映画を観終えた後で、私たちの社会に蔓延する不正義に反旗を翻す気持ちになってくれたら。それが、私たちの願いです。

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