小川紗良監督への期待と小川未祐さんへの驚き
小川紗良監督、現在25歳、ウィキペディアで経歴を見る限り、どういう経緯でこの映画を撮ることになったんだろうと不思議でしたが、インタビュー記事を読みますと、自主制作の延長線のような感じで広がっていったようです。
主演の小川未祐さんともう一度一緒に映画をつくりたいから始まり、最初は短編をイメージしていたけれども構想がふくらんで短編では収まらなくなり、早稲田で3年(多分)先輩の東映の小出大樹さんに相談したところ早稲田人脈もあってどんどん枠組みが広がっていったということのようです。
撮影は2019年ですので早稲田を卒業したその年、23歳の時とのことです。
人物(俳優)がドラマを生み出す
同じく上のインタビューの中で
極力“映画っぽいもの”を取り除いていこうという意識がありました。地元の子どもたちの伸び伸びとした姿を撮影したのもそうですし、色味や音も、安易な“映画らしさ”には流れないよう気を付けていました。
と語っています。
「映画っぽいものを取り除く」との言葉にはいろいろな意味合いを含んでいるんだろうとは思いますが、ひとつには安易にドラマを語ろうとしないということだと思います。
実際そのように出来上がっており、主人公の花(小川未祐)の過去を語るためのフラッシュバックも最低限にして、現在の花自身にその存在そのもので語らせようとしています。
小川未祐さんあっての映画
その小川未祐さんがとてもいいです。それを引き出すのは監督という意味も含めて、小川未祐さんなくしてこの映画の良さは生まれなかったでしょう。
目だけでも語れる俳優さんです。
私の見た映画で言えば、深田晃司監督の「よこがお」にクレジットされていますが、あれは映画自体の出来自体に怒って(勝手に(笑))いたこともあり、小川未祐さんのことはまったく記憶にありません(ペコリ)。
今後は名前を見かけたら見てみようと思います。
俳優と非俳優の混在に違和感がない
俳優の出演は、他に児童指導員役の芹澤興人さん、花の同級生役の福崎那由他さん、花の母親役の山田キヌヲさんの3人だけで、重要な子役である晴海を演じているのも鹿児島県阿久根市でのオーディションで選んだ花田琉愛さんとのことです。児童養護施設の話ですので、他に10人くらいの子どもたちや2、3人の保育士さん(人数は多分)が登場し、こちらの出演経緯はわかりませんが現地の人たちのようです。
映画の構成としては、1/3くらいは児童養護施設内のシーンになり、そうした非俳優の大人たちも写り込みます。当然台詞はなく、そうとわかって見ているからということもありますが、ほとんど違和感はありません。うまく撮られています。
芹澤さんが俳優然とせず、それっぽく振る舞うよう心がけていたようにも感じ、また、小川未祐さんの子どもたちとのアドリブ(的)台詞が自然ということもあり、俳優と非俳優の混在に違和感を感じません。
ワンシーン、子どもたちが自分の名前の由来を語るシーンがあります。そこでは大人たちが台詞ではなく自然な言葉で話しかけているのですが、このシーンもうまく収まっていました。
説明台詞なしの潔さ
まったくと言っていいほど説明台詞がありません。
そこが児童養護施設であることも、なぜ花が施設にいるのかも、なぜ晴海が施設にやってきたのかも一切言葉では語られません。おそらくかなり気を使ってシナリオを書き上げたのでしょう。
いろいろ手法はありますので一概に説明台詞がダメというわけではありませんが、それを排除することにこだわったのだとすればかなり潔いことではあります。
ネタバレあらすじとちょいツッコミ
海辺で波に洗われながら泣き崩れる花(小川未祐)のシーンから始まります。
続いて、タイトルか何かが入ったのか、金魚鉢を見つめる花の横顔のカットになったのかはっきりした記憶はありませんが、いずれにしても、これからこの海辺のシーンに至るまでが描かれるんだなということがわかります。
この金魚を見つめる横顔のアップからして、小川未祐さん、いいですね。
花が児童養護施設で暮らしていることが2、3カットでわかるように作られています。施設は小規模で民家のようなところで運営されています。
晴海が施設にやってきます。心を閉ざしています。花はそんな晴海を気にかけるようになります。
そうした施設での生活の日常の中で花と晴海の交流が描かれ、花の(母親の)過去が明らかになっていきます。
花は18歳、児童指導員のタカ兄(芹沢興人)に大学へ行くのやめようと思うと告げます。奨学金を受けるために親の名前を書かなくてはいけないからだと言います。
ある時、花は新聞に「再審請求棄却(だったと思う)」の文字を見つけます。花の母親の記事です。
弁護士と面会します。弁護士は2度めの(だったと思う)再審請求が棄却されたと言い、母親が花に会いたいと言っていると告げます。花がどう思っているのかは具体的には示されません。
晴海は心を閉ざしたままです。それでも花は何かと気にかけ、ある時、伸び放題になっている晴海の髪をすき、身体にアザがあることに気づきます。
花と晴海で買物にいきますと、晴海が執拗にキャラメルを買物かごに入れます。その執拗さに花が「なぜいい子にできないの!?」と声を荒立てますと晴海は「いい子にしても帰れないじゃん」と答えます。
この台詞、晴海は母親の虐待にあっているのにそれでもなお母親のもとに帰りたいという台詞なんだとは思います。同じ意味合いでしょう、ある日、晴海がいなくなります。気づいた花がもしやと思い駅に駆けつけ見つけます。晴海は次第に心を開くようになっていきます。
花は、母親のせいでしょう、学校でも孤立しています。別れの曲(だったと思う)につられて音楽室をのぞきますと数人の生徒が白い目で花を見ます。
学校帰り、田んぼの中で靴を探す貫太(福崎那由他)がいます。花が片方の靴を見つけて渡します。貫太はいじめられているのでしょう。ただ、その描写はありません。
後日、貫太は自分の親がやっている流しそうめんの店に招待してくれます(多分)。施設のみんなで流しそうめんを楽しみます。
町のお祭りの日、花と晴海が金魚すくいをしていますが、うまくすくえません。店主が「おじょうちゃん、サービス」と言って袋に入った金魚を眼の前に差し出します。
花に記憶が蘇りパニックに陥ります。
フラッシュバックです。10年前のお祭りの日、かき氷(だったかな?)を食べた人が次々に倒れます。花の母親が警察に連れて行かれます。
子どもたちの一時帰宅の日です。晴海も母親のもとに帰ります。そして、施設に戻るべき日、晴海は帰ってきません。晴海は? と尋ねる花に、タカ兄は晴海が(母親がだったか?)延長したいと言ったと答えます。花は、タカ兄はなにもわかっていないと声を荒立てます。
そして、晴海の実家の住所を調べ向かいます。家の外でぽつんと座り込む晴海を見つけ二人で逃げ出し、海辺に放置された廃船に隠れます。
翌日、警察の捜査で二人は発見され、晴海は児童相談所に保護されます。
施設に戻った花は、金魚鉢の金魚をすくい取り、海辺にいき、波に揉まれながら泣き崩れます。そして金魚を海に離してしまいます。ファーストシーンです。
絶望ということか…と思いましたが違うようです。
はな!(って入っていたかな?)晴海が駆けてきます。花は晴海を強く抱きしめます。
シンプルで的確だが物語が足りない
と、きわめてシンプルに、そして適確に描かれてはいます。
ただ、物足りません。物語が足りません。短編の延長から抜け出れていません。
説明を排除していることはいいことですが、たとえば、花の過去を海辺に立つ母親のワンカットやお祭りのワンシーンで描こうとしていることがかえって説明的に見えてしまいます。もっと工夫が必要です。
同じように同級生の貫太も説明しないことがかえって段取りにみえてしまう危険があります。
さらに言えば、晴海が虐待にあっていることの重さが軽すぎます。
とにかく、この映画は小川未祐さんで持っている映画です。
小川紗良監督にはきっちり2時間のシナリオを仕上げた上の映画を期待します。