シンプル過ぎるが、レイキャヴィークの美しき映像、繊細な演出は得難い…
アイスランドと聞けばビョークさんですが(個人の感覚です…)、映画も割と見ています。ベネディクト・エルリングソン監督の「馬々と人間たち」や「たちあがる女」とか、最近見た「TOUCH/タッチ」には Kōki, さんが出演していました。

物語よりもウナの内面を描こうとしている…
愛する人を突然失う女性ウナの物語なんですが、その愛が秘密であったために誰にも言えず、また周りの誰もが失った相手の恋人と思っている女性と対面することになり、さらに皆がその女性を慰める様子を見続けなくてはいけないという二重三重につらい状態に置かれるという話です。
かなりシンプルな映画ですので物足りなく感じることも事実なんですが、泣かせようとするようなところなどまったくなく、ていねいにウナの気持ちを捉えようとするカットが多く、また相手の女性との関係の複雑さがうまく表現されています。
ウナ(エリーン・ハットル)とディッディ(バルドゥル・エイナルソン)が夕日の海岸で愛を語り合うシーンから始まります。
徐々にわかってきますが、二人とも学生でパフォーミングアーツの話が出てきますので芸術系の大学だと思います。またシーンはありませんがバンドを一緒にやっているようです。
ディッディはグンニ(ミカエル・コーバー)とルームシェアしているらしく、ウナとディッディが一晩過ごして、翌朝ディッディが高校時代からの恋人クララと別れてくると言い残して出ていった後、一人で部屋を出ようとした時にグンニが戻ってくる気配を感じて部屋に戻り、自分の靴は玄関先に残したままディッディの靴を借りて窓から出ていきます。
ルームシェアしているグンニが二人の付き合いを知らないということはかなり不自然に感じます。玄関先に残した靴がラストシーンへの伏線的な扱いになっていますのでそのために考えられたことかもしれません。
続いて、学校でのウナのシーンがしばらくあり、そしてトンネルを走行中の車内からのカットに変わり、突然前方から炎の塊が車に押し寄せてきます。
ディッディが亡くなります。
繊細なドラマづくり…
ここまで1/3くらいの印象です。これ以降最後までウナや友人たちの喪失感を描いたシーンになります。全体で80分とかなり短い映画ですが、それでも残り1時間弱をウナの喪失感と苦悩だけで貫いたということになります。
潔いといいますか、ルーナ・ルーナソン監督に実体験のようなものがあるのかもしれません(想像です…)。映画の物語として考えたのであれば、もっとなにかドラマを付け加えたたくなるのが映画制作者の習性じゃないかと思います。
とにかく、事故は犠牲者が12人におよぶという大惨事でした。ウナとグンニはディッディの無事を願いながら救急センターのようなところに向かいます。他の友人も駆けつけます。そしてディッディが犠牲となったことを知ります。
ワンシーン、ウナと父親のシーンが入ります。ウナが不安から父親に迎えに来てもらったということのようですが、些細なことで言い合いになったりとなんだか奇妙で中途半端なシーンでした。
バーです。ウナがバーテンダーに今日のシフトを変わってほしいと言っています。グンニたちがやってきます。ひとり女性がいます。ウナの表情が厳しくなります。ディッディの恋人クララ(カトラ・ニャルスドッティル)と紹介されます。皆がクララを慰めています。
慰められるべきは私のはず、ウナのつらさや悔しさやいっそのこと言ってしまおうかといった苦悩の表情を捉えたカットが続きます。グンニがディッディから聞いていたと話しかけてきます。今朝、ディッディはそう言って出ていったと言います。
このグンニの一言がなければおそらくウナはみんなの前で私たちは付き合っていたと言っていたでしょう。こういう繊細なつくりがされている映画です。ということからすれば、ウナとディッディの付き合いはつい最近のことかもしれません。そうであればグンニが知らなかったことに違和感はありませんし、ディッディが不誠実ではなかったことにもなります。
レイキャヴィーク、美しき映像…
いいシーンがありました。レイキャヴィークのハットルグリムス教会での追悼ミサのシーンです。
ウナとクララが教会の外で話をします。学校でのパフォーミングアーツの課題の話になり、ディッディが実際にウォッカを飲み続けて酔いつぶれるパフォーマンスをしたとの話の後、クララはウナにあなたはなにを?と尋ね、ウナは空を飛ぶパフォーマンスと答えます。怪訝な顔のクララ、ウナがここに立ってみてと教会の前に立つよう促し、そしてゆっくりと後ろへ下がってみてと言います。
Someone35, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
これは実際に映像を見ないとわからないかもしれません。上の画像の教会の平らな壁が床だと想像しますとその両側の段々になっている柱が階段に見えてきます。教会を見上げてそう想像しながら後ろ向きに下がっていきますと自分がその床から浮かび上がるように感じるということです。
こういうところにもルーナ・ルーナソン監督のセンスの良さを感じます。
それにしてもこの塔、すごいですね。73メートルありエレベーターで上る展望台があるそうです。
この映画にはレイキャヴィークの美しい映像がたくさんあるのですが、救急センターのように使われていたのはハルパ・レイキャヴィク・コンサートホールです。
上のリンク先にこの映画の中で使われていた箇所の美しい画像もありますがライセンスがはっきりしませんので Googleストリートビューです。
冒頭とラストシーンの夕陽や町並みも美しいです。
マジックアワーは、喪失か、再生か…
ハットルグリムス教会のシーンでしたか、最初にバーで出会ったシーンでしたか記憶は曖昧ですが、クララはウナにディッディのバンドにあなたが加わったと聞いたとき嫉妬した(不安を感じたというニュアンスかな…)、でもディッディはあなたがレズビアンだと言っていたと言うシーンがあります。やや緊迫感のあるシーンなんですが、ウナは私はバイセクシュアルで最後の相手は男性だったと答えています。
ラスト近くに友人のうちの一人の家に集まります。ここでもただただ喪失の悲しさが描かれていくわけですが、耐えられなくなったのでしょう、ウナが外に出ていきます。ふとガラス越しに部屋を見ますとクララがウナの方も見ています。二人の表情からは悲しみだけではない何か複雑な思いが感じられます。その二人の顔がガラス越しに重なっていきます。
そして、その経緯は描かれていませんが、ウナとクララはディッディの部屋に泊まることになり、その部屋に入る際、クララはウナが上着を自然に玄関のフックに掛けるところを見ます。またウナはそこに残されている自分の靴を見ます。あるいはそのカットは二人の視線を意味しているのかもしれません。
そしてベッドに横たわる二人、クララがウナの方に向き直ります。しばらくあってウナもクララの方を向きます。さらにしばらくあってウナの胸に顔を埋めるクララ、それをしっかりと抱きしめるウナです。
そして、現実なのか幻想なのかわかりませんが、ウナとクララが冒頭のディッディとのシーンと同じように夕日の海辺に肩を並べています。
まさしくマジックアワーです。
この映画は昨年2024年のカンヌ国際映画祭ある視点部門のオープニング作品として上映されています。