なぜ今ヤクザの世界に擬似家族をみようとするのか?!
なんだか映画.comやFilmarksなどのレビューサイトでは評価が高くなりそうな映画だなあと思いながら見ていたのですが、今、映画.comを開いてみましたらやっぱりかなり高いです(笑)。
「情」に中身がない
いきなり身も蓋もなくなるような見出しを書いてしまいました(ペコリ)。
なぜ評価が高くなると思ったかと言いますと、まず「情」です。たいてい映画は不幸物語を情で描けば評価は高くなります。それと「家族」です。家族物語に情を絡めてそこに叙情的な音楽でも入れれば多くの人は感動しますし、私も(この映画ではしないにしても)よく感動しますし涙もします。
この映画では実際の家族を描いているわけではありませんが、ヤクザ集団とその周辺の群像を擬似家族として描こうとしています。
ヤクザ集団に家族的情緒関係を求めて身を寄せるのは賢治(綾野剛)という男です。賢治は家族を知らずに育った(かどうかわからないけど)がゆえにグレたという設定です。その賢治が柴咲組の組長(舘ひろし)に優しくされたためにそこに父親を見て(かどうかもわからないけど)家族的情愛を感じ涙を流して組員になります。
この「どうかわからない」ということがこの映画の一番の問題で、賢治の行動を冷静にみてみますと、あのやんちゃな賢治がたかが組長に優しくされただけでヤクザになるなどとはとうてい腑に落ちません。まるで突然何かにうたれて神に帰依したかのようですし、思想で言えば転向みたいなものです。
ちょっとオーバーな言い回しになりましたが映画的な説得力がないということです。もちろんそういうことがないわけではなく、またそれを否定しているわけでもなく、もしそうであるのならその帰依なり、転向なりを描くのが映画であって、いきなりこうなりました、こういう人物ですと言われてもそれでは映画じゃないだろうということです。
さらに言えば、仮に賢治の転向が情によるものとするのであれば、その「情」の中身を描かなければ映画にならないということです。
この映画は、不幸、あるいは不遇の表層を描いている、語っているだけです。
ネタバレあらすじとちょいツッコミ
賢治(綾野剛)の1999年、2005年、2019年を描くことで構成されています。19歳、25歳、39歳ということです。
最初に言うのもなんですが、賢治に20年という時の流れは感じられません。と思って綾野剛さんの年を調べてみました現在39歳、ぴったりなんですね。逆に19歳に見えなかったかどうかということでもありませんので、映画に20年の歳月が感じられなかったというのが正解かと思います。周りの人物、柴咲組組長の舘ひろしさん、疑似母親のような愛子の寺島しのぶさん、一夜の関係で賢治との間に子を持つことになる由佳の尾野真千子さんがほとんど変わって見えないということもあるかもしれません。演出として工夫が足りない感じがします。
1999年
脱色髪の賢治が原チャリで父親の葬式にやってきます。参列していた刑事(岩松了)から「戻ってきたのか? これからどうするつもりだ」などと言われています。
賢治が社会からドロップアウトしていることはその気配で感じられますし、後にちらほらと父親が覚醒剤のせい(大量摂取?)で亡くなったらしいことは語られますが、映画からは1999年の賢治の背景はよくわかりません。
公式サイトを読んでおけということでしょう。
派手な金髪に真っ白な上下で全身を包んだ19歳の山本賢治(綾野剛)。証券マンだった父はバブル崩壊後に手を出した覚せい剤で命を落とし、母親もすでに世を去っている。身寄りのない山本は、悪友の細野(市原隼人)・大原(二ノ宮隆太郎)と連れ立っては、その日暮らしの生活を送っていた。
らしいです。
で、この3人はたまたま(かどうかもわからない)町のど真ん中(オイ、オイ)で覚醒剤の密売の現場に遭遇し、その覚醒剤と現金を強奪します。その帰りでしょう、行きつけの愛子(寺島しのぶ)の食堂で柴咲組組長(舘ひろし)が対抗する侠葉会(きょうばかい?)の鉄砲玉に狙われているところを救います。公式サイトのあらすじによれば愛子の夫は組長の弟分で(多分)抗争ででも殺されたのでしょう。
賢治は組長が入ってくるなりガンつけまくっていましたが、どういう意味なんでしょう? 柴咲組は覚醒剤を扱っていませんし、もしヤクザが憎いということであれば、この後すぐに柴咲組の組員になることもおかしなことですし、それにあれだけガンつけていたら喧嘩売っているのと同じだと思います。
それにもうひとつ、鉄砲玉がすぐに鉄砲撃たなきゃ鉄砲玉にはなりません。映画的処理ではあるのでしょうが、ビビっているようには見えませんでしたし、なにか演出が必要でしょう。
そして後日、柴咲組に呼ばれた賢治は組長からヤクザになれとの誘いにヤクザは嫌いだときっぱりと断ります。帰りに組長の名刺をもらいます。(断ったのなら捨てなさい(笑))
3人は侠葉会に拉致されボコボコにされます。船に乗せられる(沈められる? 売られる?)直前、柴咲組組長の名刺で救われます。
顔面傷だらけ血だらけの賢治と組長が向かい合っています。突然賢治が泣き出します。
ここでタイトルになり1999年は終わっていたと思います。このパートはプロローグ的な扱いになっていますので賢治がヤクザになった経緯をダイジェストで見せているだけです。ですのでツッコミどころはたくさんあり、そもそも組長に鉄砲玉を差し向けられた時点で侠葉組と戦争になっているでしょうし、売人は町中であんな大量の覚醒剤を持ち歩いていないでしょうし、侠葉組に億単位の損害が出ているのに簡単に手打ちなど出来るわけはありません。賢治だってあれだけボコボコにされればすぐに歩けるわけはなく骨折や内蔵破裂で入院でしょう。
まあそうした映画的なごまかしは置いておいても、一番の問題はあれだけ粋がっていた賢治がたかがあの組長との対面だけで涙を流してヤクザになるって説得力がありません。そもそも賢治がグレた原因は何なのかシナリオに書き込まれているんでしょうか?そうした背景が賢治から見えてきません。
こういうことが表層だけ語っているだけで中身がないということです。
2005年
賢治はすでに柴咲組のナンバー3になっています。組長と固めの盃がかわされます。賢治は命をかけて組長を守ると言っています。
ヤクザの儀式など知る由もありませんのでググってみましたらこんなサイトがありました。第三セクターなんでしょうか、株式会社松江情報センターのサイトです。
この図で言いますと、賢治は組長の舎弟ということで図で言えばスキンヘッドにサングラスの男ということなんでしょうか。
賢治は黒のスーツにサングラス、ヤクザスタイルと言っていのかどうなのか、裸になれば全身入れ墨です。
綾野剛さん、無理やり強面を作ろうとしていますし、ドスを効かせようと低い声で頑張っていました。かなり無理があります。むしろ一般人に見えるのにその筋の人的なキャラにすべきだったと思います。たとえばゴッドファーザーのマイケル(アル・パチーノ)のような。
で、この2005年のパートは、柴咲組と侠葉組との抗争と賢治の恋愛(と言っていいかどうか…)で進みます。あまり細かく記憶していませんのでそれこそダイジェスト版で。
その町の南エリアは柴咲組のシマ、北エリアは侠葉組と縄張りが決まっているようですが、折からの取り締まりの厳しさから侠葉組が南へ進出しようとしています。また侠葉組は、冒頭のシーンで賢治を諭していた刑事と裏でつながっているようでその刑事が一枚噛んでいるようでもあります。
この刑事の位置づけも中途半端で、ラストでは侠葉組の若頭ともども賢治に撲殺されますので本当はもっときっちりした描き方をするべき人物だと思います。
とにかく、ある日、侠葉組の男が柴咲組のシマのクラブでイチャモンをつけ始めたらしく、賢治が呼ばれます。言い争いの末、賢治は酒瓶で男を殴りつけ追い払います。
こういうシーンを見ていますと、あんなクラブ、一般人は絶対いかないですし、仮にいったとしてもリピーターにはならず、あのクラブは一体どうやって稼ぐんだろうと思いますし、柴咲組にしてみればそうした店からのみかじめ料だって重要な収入源だと思うんですがどうなんでしょう? つまり、店の中であんなことはしないんじゃないのということです。この後のどこかのシーンでも一般客をボッて恐喝まがいのことをしていましたが、あんなやり方じゃヤクザも成り立たないですし、柴咲組にしても賢治にしても同情の余地などまるでない反社そのものじゃないかと思います。
とにかく、その場の店は落ち着きを取り戻し、賢治たちも席に座ります。そして賢治の隣りに座ったホステス由佳(尾野真千子)が賢治の手の傷にガラス瓶のかけらが入っていることに気づき取ってくれます。賢治が由佳を見つめます。
ちょっと恥ずかしくなるようなベタさなんですが、この後の展開にも、この脚本監督の藤井道人さんの男女観や恋愛観がよく現れているように思います。
賢治の帰り際、子分がママに由佳を賢治のもとに来させるように言い残していきます。賢治の住まい(ホテルじゃなかったと思う)、由佳が来ます。賢治の口調は、座れ!こっちへ来い! で、いきなり覆いかぶさろうとします。由佳はやめてよ! 何するの! と拒否します。賢治はわかっているだろう! と言いつつも暴力的に行為に及ぼうとする様子はなく、言葉も次第に(今どきの男女の言葉のように)変わっていき、由佳がそんなつもりはないわよと言いますと何を言っているだ、ここへ来たんだからコミだろうなんて返します。
笑いそうになりましたが、そんなことよりも、賢治の人物像に、強がってはいるが女性にはうぶで対し方も知らないという男性像を無理やり押し込もうとしています。
さらに、なんでホステス(なんかって言っていたかも)やってんだと聞きますと由佳は授業料のためと答え、やけに老けた学生だなあと投げつけます。
由佳が大きなお世話よとでも答えたかどうか忘れてしまいましたが、なんなんでしょうね、この台詞、由佳をいくつと設定して尾野真千子さんをキャスティングしたんでしょう? 何かの言い訳でもしているんでしょうか、もしそうならそれはあまりにも不適切なギャグですよね。
さらに次のシーンがいただけません。
結局何もしなかったのでしょう、夜明け前、ふたりは浜辺にいます。ふたりに身の上話のようなことをさせ、由佳になぜサングラスをしているの? 暗くないの? などを尋ねさせています。今どきの恋愛ドラマのパターンと台詞です。
この一連のシーンが決定的にだめなのは、このシーンがあることで賢治の日常である組員の顔は(頑張って)演じている顔だということが示されたにも関わらず、由佳とのシーン以外ではそうした影の部分が全く表現されておらず、賢治の日常は単細胞人間として描かれているということです。
長くなっています。このレビュー、終わりますかね(笑)。
組長が賢治を釣り(なぜ釣り?)に誘い、賢治が1999年時代からつるんでいて今は子分の男の運転で出掛けます。侠葉組の男に襲われます。危うく組長が撃たれるところを賢治が覆いかぶさり助けますが、代わりに運転の男が撃たれ、健二も怪我をします。
いきり立つ賢治たち柴咲組ですが、例の刑事がこれからはヤクザには厳しい時代になるよと間に入り、警察の手でかたをつけることで話がつきます。侠葉組が実行犯を差し出し手打ちするということです。刑事が裏で暗躍しているのでしょうが映画としてはまったく描かれません。
収まりのつかない賢治は侠葉組の若頭(豊原功補)を襲い、今まさに撃たんと拳銃を突きつけます。その時、後から賢治の兄貴分で柴咲組の若頭が相手の男に刃物を突き立てます。そして賢治に親父のことは頼む! と言います。が、賢治は兄貴のその刃物を奪い、自分で相手の男をを何度も何度も刺します。
由佳の住まい、血だらけの賢治が倒れ込んできます。自己喪失状態のように見えます。この賢治の振る舞いにも違和感ありますがとにかく、由佳は戸惑いつつも賢治を抱きしめます。そのままふたりは倒れ込み、賢治は由佳を見つめキスをしようとし、さらに衣服に手をかけていきます。
正直、オイ、オイ! です。仮にこうするのであればこのシーンの前にももう少し何らかの由佳のシーンを入れておくべきでしょう。それに賢治の人物像がむちゃくちゃです。もっと冷静にさせておかないと賢治という人物が見えてきません。それに由佳だって仮に多少なりと愛情があるにしても血だらけの相手と玄関先でやるってのは嫌だと思います。
とにかく、由佳や愛子の描き方は男目線の女性像としか言いようがありません。ヤクザものだからという言い訳は通用しません。現に賢治と由佳のシーンでは今どきの男女のように描いていますし、愛子にしても映画の中でそれらしき描写がないにもかかわらず当然のことのように母親的存在として見せています。
賢治は逮捕され服役します。
2019年
14年後、賢治が出所します。ヤクザ業界(?)は一変しています。柴咲組は完全に落ちぶれて組員も古くからの数人になり組長もガンで入院しています。
愛子の息子翼(磯村勇斗)が成長して半グレになっています。もうヤクザの時代は終わった、俺たちの時代だと3軒ほどの店を仕切っているというようなことを言っています。ただ賢治には親近感を持ち慕っています。自分の父親はどんなだったと尋ねたりします。
賢治とつるんでいて一緒に柴咲組に入った細野は組を抜け結婚もし子どももいます。5年ルールがあり、組を抜けても5年間は人間扱いされないと嘆き、一緒に食事をしてもヤクザと付き合いがあると知られれば生きていけないと帰っていきます。
ところで、暴対法(暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律)が施行されたのは1992年なんですが、この映画1999年から始まっており時代考証的には大丈夫なんでしょうか? たしかに法律も途中改正されてより厳しくなっているようではありますが、施行後7年後くらいの最初の1999年パートにそうした影みたいなものが一切ありませんでした。
それに、柴咲組は落ちぶれていますが、相変わらず侠葉組は例の刑事とつるんでうまくやっているとの設定らしく羽振りは悪くない描き方がされています。社会情勢の描写はかなり曖昧にされているようにもみえます。
賢治は由佳の行方を突き止め、勤め先の役所で由佳の前に現れます。しかし、由佳にはもう来ないで!と突き放されます。再び会いに行った(と思う)賢治は由佳に子どもがいることを察知し歳を聞きますと14歳と答えます。
この展開には本当に男の甘えが出ています。義理と人情を重んじるヤクザなら会いに行っちゃだめでしょう。それに会いに行くなら行くで賢治の人物像をそうした揺れの激しい人物として描いておくべきでしょう。
由佳の不自然さを賢治への愛情があるように描いてつじつまを合わせようとしていますが、それならそれで由佳にだって葛藤があるでしょう。そうした由佳の人格を無視して、出所後賢治が会いに来れば一旦は拒否するも自分から子どものことをもらし、賢治に組を抜けたと言われれば喜々として一緒に暮らすというのは女性を男の都合よく描きすぎです。
賢治は組を抜け、細野の紹介で同じ産廃処理業者で働きはじめ、由佳と娘の彩と暮らし始めます。彩には最近知り合ったと過去は隠しているようです。彩は母が明るくなったと語っています。
映画はここから一気にオチをつけようします。
産廃業者の同僚が賢治と細野を撮った写真をSNSに上げたらしくそれが炎上し、賢治が元ヤクザであることや細野の過去がネットにさらされ、細野は仕事も家族もすべてを失い、さらにその余波が由佳の身辺にまで及び、由佳は解雇、彩は転校せざるを得なくなります。賢治は由佳に謝ろうとしますが、あなたが来なければこんなことにはならなかった!と受け付けません。(ここでも由佳の人格を無視して賢治を追い込むために利用しています)
一方、愛子の息子翼は自分の父親をやったのが侠葉組であると確信したらしく賢治に親父を殺したやつがわかったと言います。
翼がバットを持って侠葉組に乗り込みます。しかし、そこにはすでに賢治によって撲殺された侠葉組の若頭と例の刑事の死体が横たわっています。
波止場です。血まみれの賢治が遠くを見て佇んでいます。突然賢治が刺されます。細野です。ふたりは海に落ちていきます。
いくら何でもこれでは細野を落とし込め過ぎでしょう。そんな逆恨みのようなことをする人物が20年以上も友人でいることはありません。いや、あるかもしれませんが、もしそうであるのならそうした人物として細野を描いておくべきということです。
つまりこの映画はその場その場で都合よく人物を物語に当てはめているだけで、誰ひとりとして、賢治でさえ一貫した人物として描いていないということです。
相当辛辣なレビューになってしまいましたがラストシーンです。
後日、その波止場に翼が花を供えています。賢治はあのまま亡くなったということでしょう。帰ろうとしますと女子高生とすれ違います。彩です。彩がお父さんのことを知りたいと声を掛けます。翼は少し話そうかと答えます。
終わりですが、オイ、オイ! でしょう。また何かを繰り返そうとしています。
そこは言葉を交わさずすれ違って終わらなくちゃいけないでしょう(涙)。
とにかく、オチをつけようとの意識の強さが先走ったエンディングでした。
なぜ今この物語?
わからないですね。ヤクザの世界に家族の情を重ねて描こうとする意図がわかりません。
ヤクザにだって家族があるだろうという描き方ならわかりますが、ヤクザの人間関係に擬似家族の情を重ね、さらにそこに女性無視(蔑視)の価値観を持ち込み、感動させ泣かせようとするなんて時代錯誤の価値観でしょう。
結局この映画がやっていることは、父権主義を感傷的に描き、逆説的に美化している映画ということです。