中上健次とチラシの雰囲気につられ、多少不安を抱えながらも見てきました。予想通り(笑)あまりの腹立たしさ(というより情けなさ…?)に、見終えた早々つぶやいてしましました。
原作を読んでいませんので、これを機に読み始めました。まだ1/3ほどですので何とも言えないのですが、小説自体が、ん、中上健次?って感じで少し雰囲気が違います。
まあ、小説としての云々はさておいて、映画ですが、田舎の資産家の息子が甘やかされて育ち、東京で好き勝手に暮らすうちにつくった600万の借金も親の助けを借り(映画では分からなかったが)て逃げだし、知り合ったダンサーを連れて田舎へ帰るという…(まだ読んでいるのがここらあたりなので)、そんなベタな話を、誰に焦点をあてるでもなく、どこに視点を置くでもなく、ただストーリーを追って撮っても面白くなるとは思えません。でもそうしてしまったんですね。2011年の今に置き換えて、さらにヒットを狙って純愛ものとしてやってしまったんですね。
だいたい中上健次の原作からストーリーだけを抜き出して映画にして、それって中上健次?って、誰でも分かると思いますけど。
まあ、映画は映画って考え方もありますので、いいのかも知れませんが、ただそれだって、原作を超えて、あるいは違った側面を見せてもらわないとちょっとまずいと思います。やっぱり原作どおり真知子の目線で映画にすべきだったんじゃないでしょうか…?
鈴木杏、高良健吾の主役二人はいかにも力不足ですが、それを何とかするのがこういう(準)メジャー系の映画の監督の仕事じゃないんでしょうか。明らかに脱ぐことへの抵抗感が拭いきれない鈴木杏のぎこちなさやダンサー的素質のなさをそのままスクリーンにさらしてどうするんでしょう? 監督という仕事は、制作段階ではどんなに俳優をいじめてもいいとは思いますが、外(スクリーン)に対しては、俳優を守る立場に立つべきです。真知子(鈴木杏)を美しく妖しく魅力的に見せる方法はいくらもあるでしょう。
結局、この映画、監督が傍観者ということでしょう。