染谷将太と二階堂ふみのヴェネチア最優秀新人俳優賞受賞は納得です。というより、この二人の演技を取ったら、いつも通りの過剰なる園子温ワールドしか残りません(笑)。
さらに、その過剰なる園子温ワールドからその過剰さを取ったら、いったい何が残るのでしょう?
住田(染谷将太)の父親(光石研)の暴力性は、DVというよりも、思考が子どもゆえの単なるわがままです。やたら暴力をふるい、住田と顔をつきあわせて、「死ね!」だの「お前なんかいらない!」だのと叫び続ける過剰さを取ったら、単なるわがままな子どもです。なぜ、父親は住田をいらない子どもだと言い続けるのでしょう? まあ多分、望んで産んだ子供じゃないということでしょうが、園監督にはそんなことはどうでもよく、暴力的でろくでなしな父親という表層的な存在が必要ということなんでしょう。
同じく、住田の母親(渡辺真起子)の思考も子どもです。母親は、子どもの前でも平気で男を家に連れ込み、挙句にその男とどこかへ行ってしまいます。駆け落ちという言葉は当てはまりません。全て自分の意志でやっていることですし、駆け落ちなどする理由はないわけですから、こんなことはこれまでにも繰り返されていることであり、いずれひょっこり帰ってくるのでしょう。その過剰なる身勝手さもやはり表層的であり、園監督はその人物像にあまり関心がないようです。
茶沢(二階堂ふみ)の母親(黒沢あすか)も、住田の父親と全く同じように、茶沢に「死ね!」と言い続け、父親(堀部圭亮)と共に絞首刑台をつくっています。まあ、どう考えても「ハァ!?」なんですが(笑)、なぜそんな両親なのかなど、園監督は全く興味がないようで、ただ××な両親を持った少女という極めて表層的な設定が欲しかったのでしょう。
で、その4人の過剰さを取ったとして、つまりこの4人が登場しないとして、何か問題が発生するのでしょうか?
住田は「ただ普通に生きたいだけ」だと言っていますが、それはあの両親であることから生まれてくる感情とは考えにくく、今の多くの若者の共通意識ではないかと思います。茶沢の方はさらにはっきりしており、どう考えても、あの両親の存在が茶沢の考えや行動に影響を与えているようには思えず、社会的に極めて健全な考えで行動しており、描き方としては、ある種、住田的な若者への「ガンバレ!」的社会的プレッシャーを与え続ける役を担わされた人物と考えられます。茶沢の「愛する人と守り守られ生きたい」にしても、ほぼ人間の共通意識であり、彼女特有のものではないでしょう。
その他の人物にしても、二人に影響を与えるようなことはほとんどなく、ただ、物語を展開させる役割を担っているだけです。金貸し(でんでん)の過剰なる暴力、野宿する中年男(吹越満)ら数人の過剰なるお節介、通り魔や電車内の殺人(傷害?)行為そのものの過剰感などなど、それらの過剰感をちょっと押さえてみれば、特別目新しいものではなく、これまで様々な映画やドラマに登場し使い古されたキャラクターたちばかりです。
ということで、住田と茶沢の二人は、あの4人の両親がいなくとも何ら違和感なく存在し得ると考えられますし、物語にしても、この二人だけで充分に展開できる内容に思えます。
で、結局、この映画から過剰さを取ったら何が残るのか?
衝動的に人を殺してしまった少年が、絶望のあまり自殺を考えるが、頑張って二人で生きようという少女の励ましで、生きる希望をみいだすという、何ともベタなお話しということになるのでしょうか…。
少し話しが変わりますが、あらためて考えてみますと、この映画でもそうですが、園子温監督の描く暴力って、狂気みたいなものや人間に潜む(かどうかは知りませんが…)暴力性みたいなものとは違って、どこか子どものわがままの延長線上にあるもののような感じがしますね。単に乱暴者といった感じの…、ああ、でも、「冷たい熱帯魚」のでんでんはちょっと違ったかな…。
それともうひとつ、震災後のカットを入れ、全てを失った男(渡辺哲)を登場させていますが、「震災を無視して2001年のリアルをやっても意味がないと思いましたし、それを描くには3月11日の震災は盛り込まないといけない問題だ」と語っていますが、その答がこれなんですかね?