奇跡という究極のドラマを扱いながら、そのドラマ性に頼ることなく、それをめぐる人間を抑制された手法で丹念にとらえ、様々な感情を浮かび上がらせることに成功している
とてもいい映画でした。固定カメラによる安定した映像とゆったりしたカメラワークが、見る者に様々な想念を呼び覚まさせます。
ジェシカ・ハウスナー監督、公式サイトによると、ミヒャエル・ハネケ監督に師事とありますが、確かにかなり影響を受けているかも知れません。
冒頭のシーン、テーブルとイスが整然と並ぶ大きな部屋を固定カメラが俯瞰でとらえます。スクリーンの隅々までじっくり見ることができる充分な時間があります。テーブルにはお皿にナイフフォークがセットされています。レストランだろうか? いや、それにしては雰囲気が冷たすぎるなあ、などと考えていると、女性が料理を乗せたワゴンを押してフレームインしてきます。続いて、車椅子の人と介護するシスター、介助用の歩行器を使って歩く人、杖を使って一歩一歩歩く人などなど、たくさんの人々が同様にフレームインしてきます。
このファーストシーンは、特別新鮮な手法というわけではありませんが、この映画がどんな映画であるか、見る者に分からせるにはとても効果的です。
で、物語は、
病気が原因で車いすの生活を送っているクリスティーヌ(シルヴィー・テステュー)は、聖地ルルドへのツアーに参加する。数々の奇跡で知られるカトリックの巡礼地には、心から神業を願う者や観光客などがひしめいていた。マリア(レア・セドゥー)という若いボランティアがクリスティーヌの介護を担当するが、次第にその仕事もおろそかになっていき……。(ルルドの泉で (2009) – シネマトゥデイ)
ということで、このファーストシーンは、巡礼ツアーの朝食風景ということになります。
ルルドというのは、聖母マリアが現れたという伝説やわき出る泉の水には治癒効果があると言われるカトリックの聖地とのことです。当然観光地でもあるわけですから、皆が皆奇跡を信じているわけではないのでしょうが、それでも病を持った人々にとってみれば、マリア像に触れることや泉の水を浴びることは藁にもすがる思いなのだと思います。
そうした巡礼者の思いに混じって挿入される、介護するシスターと制服を着た男たち(どういう人たちなのかよく分かりませんが)との間に交わされる世俗的なやりとりや神父の周りで交わされる会話が、実に味わい深く、映画的にも効果的です。
そういったところの描き方がとてもうまく、俳優の演技やセリフもよく抑制されて、何とも不思議なぴんと張り詰めた空気が全体を支配しているのです。奇跡への期待、まさか自分に起きるはずはないという諦めなど、いろいろな思いが漂っています。
映画は、誰かに奇跡が起きそうな予感を漂わせて進むのですが、結局、クリスティーヌが神から選ばれることになります。そのあたりも、特別ドラマチックに扱うわけではなく、すーと自然に奇跡は起きるのです。
その後の展開も秀逸です。クリスティーヌを見つめる周囲の目、祝福とやっかみや嫉妬、それらもとにかく抑制されて描かれています。そして、過去に奇跡は起きたがしばらくすると元に戻ってしまった話が語られたり、突然クリスティーヌが崩れ落ちたりと、見ているものにも、あるいはまた歩けなくなってしまうのだろうかと不安感を抱かせます。
明確な結末はなく、クリスティーヌが車椅子に座るところで唐突に終わります。奇跡が起きたのか、あるいは奇跡ではなく、元に戻ってしまったのか、そんなことはどうでもいいとでも言わんばかりに唐突に終わります。
この映画の良さは、奇跡という究極のドラマを扱いながら、そのドラマ性に頼ることなく、丹念にそれをめぐる人間そのものをとらえることで、様々な感情を浮かび上がらせることに成功していることでしょう。監督の立ち位置、あるいはカメラの視点が、見るものに、誰に感情移入することもなく、やや引いた視点から映画を見ることを可能にしています。