ヴィルジニアは「わたしはロランス」のロランスとなり、「オール・アバウト・マイ・マザー」のロラへと旅立っていくのでしょうか?
どちらかと言いますと、ぐぐっと引き込まれる映画が好みですが、こういう楽な映画もまたいいものです。
冒頭から5分か10分くらいでしょうか、幼いクレールが、ローラと出会い、双子の姉のように慕いながら大きくなり、ローラの後を追うようにして恋愛、結婚と成長していく様を、まるで結婚式のプロフィールビデオのように見せてくれます。
その軽妙さは、ローラの死から始まるこの物語を、そして、続いて起きる衝撃の発端、ローラの夫ダヴィッドの女装姿を偶然目にしてしまう驚きを、そんな神妙な話じゃないよと教えてくれているようです。
クレールは幼い頃からの親友のローラを亡くし、悲しみに暮れていた。残された夫のダヴィッドと生まれて間もない娘を守ると約束したクレールは、二人の様子を見るために家を訪ねる。するとそこには、ローラの服を着て娘をあやすダヴィッドの姿があった。
ダヴィッドから「女性の服を着たい」と打ち明けられ、驚き戸惑うクレールだったが、やがて彼を「ヴィルジニア」と名づけ、絆を深めていく。
夫に嘘をつきながら、ヴィルジニアとの密会を繰り返すクレール。優雅な立ち居振る舞いにキラキラ輝く瞳で、化粧品やアクセサリー、洋服を選ぶヴィルジニアに影響され、クレール自身も女らしさが増してゆく。
とある事件を境に、ヴィルジニアが男であることに直面せざるを得なくなったクレールが、最後に選んだ新しい生き方とは──?(公式サイト)
物語を引っ張っていくのは、当然ながら、女装への欲望を断ち切れないダヴィッド(ロマン・デュリス)なんですが、主たるテーマはクレール(アナイス・ドゥムースティエ)の自己開放なんでしょう。
「なんでしょう」などとややそっけない言い回しになったのは、正直あまりうまく描かれていたとは思えなかったからなんですが、まあシリアスさを避けて作られているわけですし、アナイス・ドゥムースティエもあまりうまくないですし、クレールの夫ジル(ラファエル・ペルソナス)の徹底したおバカちゃんキャラからしても、冒頭に書いたように、この軽さがフランソワ・オゾン監督のねらいなんでしょう。
そもそもダヴィッドの「異性装」が何故なのか、つまり「性的嗜好」なのか、「性自認」の現れなのか、あるいは他の何かなのかなどといったことには全く触れようとしていません。
もちろん異性装であれ何であれ、その人の好きな格好をすればいいのですが、少なくともダヴィッドは、外(社会)に出て見られることを意識しているわけですから、また女性のように美しくありたいと言っているわけですから、ジェンダー的女性性はそこに意識されてくるわけです。
などと勢いで書いていますが、そもそもそんな話ではなく、かなり陳腐な言い回しになりますが、女性(ローラ)への愛、男性(ジル)への愛、性別を超えた(ヴィルジニア)愛と、徐々にクレールが解き放たれていく過程を見せようとしているわけでしょう。
ですから、ヴィルジニアとの恋愛、あるいは性的関係も、ヘテロセクシャリティとしてしか画かれていないわけです。
私としては、実のところ、この後二人はどうなっていくんだろう? ダヴィッドはどうなっていくんだろう? 果たしてダヴィッドは性別越境を望み、グザヴィエ・ドラン監督の「わたしはロランス」を経て、ペドロ・アルモドバル監督の「オール・アバウト・マイ・マザー」となっていくのだろうかと非常に興味深いわけです。