ジュリエット・ビノシュは当然としても、クリステン・スチュワートの個人秘書役が素晴らしい!
「アクトレス」はともかく「女たちの舞台」なんていう二時間ドラマを思わせるタイトルで、映画はどうかな?と思いましたが、とんでもなくいい映画でした。
それもそのはずで、原題は邦題とはかけ離れた「Clouds of Sils Maria」であり、スイスのシルス地方のマリア地区で見られる、雲が山間をぬってヘビのように流れてくる「マローヤのヘビ現象」を指しているそうです。
さらにこの「シルス・マリア」は、ニーチェが晩年を過ごし、多くの作品の着想を得た場所らしく、確かに、映画でもとらえられていた「マローヤのヘビ」は、とても神秘的で、じっと見ていればニーチェでなくとも、自然と思索の深淵に引きずり込まれそうな印象です。
2014年の第67回カンヌ映画祭コンペティション部門に出品され、メディアから“女性たちへの賛辞”と称えられた『アクトレス ~女たちの舞台~』は、フランス映画界の若き巨匠、オリヴィエ・アサイヤスが、終生のテーマである“過ぎゆく時間”に関して新たなアプローチを試みた最新作だ。アサイヤスにこの企画を打診したのはジュリエット・ビノシュだった。(公式サイト)
冒頭のシーンがとてもいいです。
今は大女優となったマリア・エンダース(ジュリエット・ビノシュ)と個人秘書のヴァレンティン(クリステン・スチュワート)が列車でチューリッヒに向かっています。ヴァレンティンは、列車の通路ながら、スマホやタブレットを2台、3台と使い分け、極めて有能に秘書の仕事をこなしていきます。
マリアは、個室で、向かう先での挨拶原稿を考えており、戻ったヴァレンティンに、その内容について、どう思うかと尋ね、後が続かないと言います。ヴァレンティンは、自分の考えを言い、後は自分が書こうかと尋ね、マリアは、どうしても書けなければお願いねと言います。
この後、車の中のシーンへと続きますが、この一連のシーンで交わされる会話は実に慌ただしく、さらに列車(カメラ)の揺れで何を見るべきか焦点は定まらず、この先どうなることかとかすかな不安を感じたのですが、この一連のシーンが終わってみれば、何と、この二人の関係が完璧に理解でき(実感でき)、実は電話で交わされた言葉や名前などさほど大したことではなく、この二人の関係を伝えるためのシーンだったのだと思い知らされるのです。
個人秘書を演じているクリステン・スチュワートさん、最初にアップのカットがあり、あれ、誰だっけ?と何かで見た記憶はあっても思い出せなかったのですが、「トワイライト~初恋~」のベラ・スワンでした。今思えば、なぜこの映画を見たのかよく分かりませんが(笑)、とても可愛いかった印象が残っています。
で、そのクリステン、この個人秘書役がむちゃくちゃいいんですよ。
映画は、マリアがまだ無名だった20年前、抜擢されて出演し、その結果確固たる地位を得た「マローヤのヘビ」という舞台の再演のオファーを受けることが軸になっています。その舞台は、40歳の会社経営者と20歳の新人社員との関係を描いたものであり、マリアが演じた20歳は、「若さという特権」を武器に会社経営者を翻弄し、自殺に追い込むというものです。もちろん今回オファーされたのは自殺する会社経営者の方です。
マリアは苦悩します。表立ってはその事実を受け入れているように見せるのですが、内心はそう簡単に折り合いがつけられるものではありません。なにせ20歳という「若さ」を武器にこの世界に躍り出て、その自信をもとに今までやってきているわけですから、舞台の役柄とはいえ、「若さ」に追いやられて消えていく役を演じることは耐えられないことでしょう。
ということなのですが、実はこの映画が良かったのは、その「過ぎゆく時間(公式サイト)」という主題の描かれ方ではなく、マリアとヴァレンティンの会話劇としての面白さなんです。
つまり、舞台劇「マローヤのヘビ」の二人の(映画内での)架空の関係が、(映画内での)現実の二人、女優マリアと個人秘書ヴァレンティンに反映され、映画が進行していくうちに二人にただならぬ緊張感が生まれていくのです。
映画の7,8割方はマリアとヴァレンティンのシーンで占められており、上に書いた冒頭のシーンに始まり、シルス・マリアの別荘(かな?)のシーンとなり、そこでマリアはヴァレンティン相手に役作りをするわけです。二人は常に一緒にいることになり、ヴァレンティンは、スケジュール調整などの仕事面からプライベート面まで有能にこなしながら、本読みの相手を務め、役柄の解釈を語ったりします。
このあたりのクリステン・スチュワートが実にうまいんです。たとえば本読みのシーン、二人とも二重構造に置かれるシーンであり、ジュリエット・ビノシュは本の中の役に集中する役ですので比較的楽だと思いますが、クリステンは個人秘書として覚めた意識を持ちつつ、本の中の役をある程度演じつつ、ジュリエットの演技を受ける立場に置かれているわけです。
上の画像にあるようにメガネを小道具に使っているのですが、その奥の目の動きを多用して実にうまく演じていました。
と、クリステン・スチュワート絶賛の映画ですが、映画としての本題、オリヴィエ・アサイヤス監督の「過ぎゆく時間」への迫り方は、どちらかといいますとジュリエット・ビノシュの演技に任せているようなところがあり、またシルス・マリアの美しき風景にクラシック音楽をつけた舞台劇の三幕構成の幕間を模したシーンでお茶を濁しているようなところがあり、はっきりしたものは見えてはこなかったです。
ああそうそう、再演版の20歳役でクロエ・グレース・モレッツが配役されていますが、結果としてあまり生きていないですね。映画のトーンとしても浮いた感じがします。
オリヴィエ・アサイヤス監督も、最終的にこういう出来になるのなら、ヴァレンティンを消してしまわず、徹底的に「マローヤのヘビ」をこの二人に重ねて描くべきだったと思っていることでしょう。
シナリオがそうなんでしょうが、ヴァレンティンを突如消しているです。もちろん消える理由はあるのですが、それにしてもいきなり過ぎです。多分クリスティン・スチュワートの出来が想定外だったことによる思わぬ結果なんだと思います。