やや「ブレードランナー」亜流、でも楽しめないわけではありません。GoogleはいずれROC社になるのかも。
「ブレードランナー」から30数年、なかなか超える作品が生まれないですね。
この「オートマタ」も相当影響を受けているようですが、こだわりは、アンドロイド=レプリカント=オートマタを、人型ではあってもかなり機械的なデザインにしているところでしょうか。タイトルをオートマタ(自動機械)としているのもそのこだわりからなんでしょう。
女性型オートマタの名前は「クリオ」でしたが、主人公ジャック・ヴォーカン(アントニオ・バンデラス)の妻に「レイチェル」の名前をつけていました。
2044年、太陽風の増加により地球は砂漠化が進み人口は2100万人になってしまった。ハイテク企業ROC社は、人類存続のため人型ロボット〈オートマタ〉を開発し様々な人間の生活を幇助していた。オートマタには2つのプロトコル「生命体への危害の禁止」「自他のロボットの改造の禁止」が組み込まれていたのだが、ある日、第2プロトコルが失われ内部が改造されたオートマタが見つかった。(公式サイト)
「オートマタ」の機械っぽさは、むしろ Sonyロボットや Pepper の方が先を行っていると感じるくらいに、まるで工作機械のようなつくりでした。
もちろん、それだって意図してなんでしょうが、徹底してクラシカルな自動機械にするとか、超未来的にするとかしないと中途半端な気がします。現実のロボットや人工知能の進化(?)によって、アンドロイド系の造形に新鮮なイメージが生まれないのかもしれません。
近未来のビジュアルも新鮮なものは難しくなっていますね。もう出尽くしているのでしょうか? 廃墟、猥雑さ、砂、荒野、ゴシック、ミニマム、ハイテク、まだまだいろいろあるんでしょうが、何を見てもどこかで見たようなものばかりです。
「近未来」という概念を持ちにくくなっているのかもしれません。
70年から80年にかけては、「核戦争」という言葉もかなり現実感を伴っていましたし、「核戦争後」という映画や演劇が数多く作られていたように思います。そうした不安や、絶望もあったのかもしれませんが、何が起きるかわからない不安と希望の未来のような感覚が「近未来」という言葉に表現されていたように思います。
何だか映画の話ではなくなってしまいましたが、「オートマタ」というタイトルに惹かれて見に行った映画ですが、やや「ブレードランナー」亜流的な印象で、でも、それほど悪くはない、それなりに楽しめる映画です。
アントニオ・バンデラスは好きな俳優さんですが、人間的過ぎて(温かい印象過ぎて)こういう映画にはあまり向いていないような気がします。
ひとつ新しいなあと思ったのは、ロボットは制限をかけないとそもそも能力が無限なものだという発想です。これまでの多くは、ロボットの能力は増幅していき、それがある時、人間を超えるというものでしたが、この映画では、そもそもロボット(AI)は最初から無限の能力を持っているという発想があり、それゆえに2つのプロトコルを組み込むことで能力を制御し、そのプロトコルを考えたのも AI だという発想です。
人間(生物)の進化をシミュレーションした発想なのでしょう。
ということで、久しぶりの SF でした。こういう映画を見ますとやっぱり「ブレードランナー」が見たくなります。