孤独のススメ/ディーデリク・エビンゲ監督

この邦題が意図的な釣りだとしたら、参りました! 意図なしのマジだとしたら、出直してらっしゃい!

孤独のススメ!? 孤独なんて、まるでテーマと関係ないじゃん!

まさか、人間皆孤独という、しょうもない意味で使っているわけでもないでしょうし、フレッドがテオを受け入れるのは孤独で寂しいからではないでしょう。

ん? この邦題、釣りか?

確かに、「孤独」好きの日本人(笑)には受けるかもしれませんし、高齢の堅物の男ひとり、寂しそうで可哀想!なんて同情で客は増えるかもしれません(あり得ん)。

ただ、「釣り」という意味では、見終わって「なにー! こんな話なのか!?」と呆れ返る点では成功かもしれません。

オランダの田舎町、男やもめのフレッドの元に、ある日突然、言葉も過去も持たない男テオが現れる。帰すべき家も分からず、やむなく始まった奇妙な共同生活だったが、ルールに縛られていたフレッドの日常がざわめき始め、いつしか鮮やかに色づいていく――。(公式サイト

ラスト10分、15分をむかえるまで、全くつかみどころのない映画です。映画が、一体どこに向かっているのかさっぱり分からないままラストを迎えます。

ズバリ書きますので知りたくない人は以下読まないでください。

田舎町ゆえの保守性や信仰ゆえの道徳性に囚われて、ゲイの息子を勘当してしまった初老の男フレッドが、交通事故により過去を失った男、つまり何のこだわりも制約も持たない男テオとの共同生活の中で、自分自身を解き放つことを理解し、息子が歌手として働くゲイクラブを訪れ、息子を認め、お互いに許し合うという映画です。

ラスト10分、15分まで、息子がゲイであるかどうか以前に、そもそも息子の話自体が表に出てくることはほとんどありません。フレッドとテオの共同生活が、村の子どもたちから「ホモ(原語で何と言ったか不明)」と差別的に囃されたり、家に「ソドムとゴモラ」と落書きされたり、また、一度フレッドがゲイクラブを訪ねるシーンもあるのですが、そのあたりでは、フレッド自身がゲイに目覚める話かと思わせたりします。

こうした手法、まあオチでびっくりさせるということなんですが、映画としてはどうなんでしょう?

とにかく初っ端から設定がとても意図的です。

美しい田園風景の中をバスが走っていきます。とあるバス停でフレッドが降り立ち、自宅へ向かいます。道路の両端に整然と並んだ家々、通りの正面には教会、フレッドは坦々と脇目もふらず自宅へ向かいます。

この描写からして思わせぶりです。寓話的、象徴的、そんな言葉が浮かんできます。

テオの登場。テオは、言葉を発しませんし、日常生活上の知識も持ち合わせていません。ここまでくれば、この映画がもう大人の寓話なんだろうと見るしかありません。さらに日曜日には村中の住人が教会へ集まり、神父の話に耳を傾け、賛美歌を歌うという、相当意図的なつくりです。

ところが、映画はいつまでたっても、期待した寓話的明快さをみせてくれません。

テオはどこから来たのか? なぜテオは言葉を発しないのか? フレッドはなぜテオを家に引き入れたのか? なぜ隣人カンプスを、ああまでフレッドに敵対する人物として描くのか?

テオに対する様々な疑問が分かるのがやっと中盤以降、テオに対するフレッドの感情は最後まで分からず仕舞い(私だけかも?)、カンプスの心理はラストに語られてはいますが、それが分かるかといえばやや疑問、と言った具合に、とても寓話とはいえない展開で進み、何と、ラスト、この映画は極めてシリアスな話なのだと締めくくられてしまうのです。

と、何やら批判的に取られそうなことを書きましたが、いや終わりよければすべてよしもまんざら悪いわけでもなく、ラストは、息子が歌う「This Is My Life (La vita)」で、まず間違いなく涙が流れます。