クリス・クラウス監督、ナチスと性の問題に切り込む
「4分間のピアニスト」のクリス・クラウス監督です。
映画ってラストシーンだなあと思い知らされた映画です。今でも予告編を見ただけで感動して涙が出てきます(笑)。
日本公開が 2007年でしたのでもう 10年になりますが、クリス・クラウス監督、IMDb を見てみましても、この間 2010年に「Poll」という映画を撮っているだけで、後はテレビですね。寡作タイプなんでしょうか。
で、この「ブルーム・オブ・イエスタデイ」、昨年の東京国際映画祭のグランプリを受賞しています。
監督:クリス・クラウス
ナチスの戦犯を祖父に持ちホロコーストの研究に人生を捧げるトト。ナチスの犠牲者となったユダヤ人の祖母を持つザジ。二人の出会いは偶然ではなかった──。ユーモアと毒舌の連続にこんなシリアスなテーマで笑っていいのかと不安を覚えた私たちは二人の旅に同行しながら気付いていく。昨日咲いた花(ブルーム・オブ・イエスタディ)が明日を輝かせてくれる。(公式サイト)
ナチスの戦争犯罪を描いた映画は日本でもたくさん公開され、おそらく結構人気のあるジャンル(と言っていいいのかどうか…)だと思いますが、その多くは当時の悲劇的な事実を映画化したものが多く、上の公式サイトからの引用にもありますようにシリアスなものがほとんどです。
で、この映画はと言えば、ナチスの戦犯を祖父に持ったトト(ラース・アイディンガー)と犠牲となった祖母を持つザジ(アデル・エネル)が、共にその出自に苦しみながらも、なんとか乗り越えていく、あるいは行こうとする物語です。
と書きますと、これまたシリアス系をイメージしてしまいますが、まあシリアスはシリアスでも、二人がとにかく感情をぶつけ合い、時に乱暴ともいえるようなシーンもあり、逆にそうした行為にぷっと吹き出してしまうようなコメディっぽいところもあり、なかなかとらえどころの難しい映画ではあります。
さらに難しくしているのは、この映画、ほとんどのシーンで「ナチス」を(映画的に)語るのと同じ地平で「性」を(映画的に)語っているのです。
冒頭から、二人の男性が、互いに相手を男性器にたとえて罵倒しあい、ついには殴り合うという「暴力」でことの決着をつけようとします。
二人は共にホロコースト研究所で働く同僚、トト(ラース・アイディンガー)とバルタザール(ヤン・ヨーゼフ・リーファース)です。喧嘩の原因は、研究所としての成果の集大成アウシュビッツ会議の準備を進めてきたトトが責任者を外され、代わりにバルタザールがその任につくことになったことで、トトは怒り狂ってバルタザールに大怪我をさせてしまいます。
そこにフランスから研修生としてザジ(アデル・エネル)がやってきます。
責任者を外されたトトはザジのサポート担当者となりますが、この二人、出会いから言葉でやり合います。
たとえば、空港までベンツで迎えに行ったトトに、ザジは自分の祖母はベンツのガス・トラックで殺されたから乗らないと乗車拒否、そもそもイライラがつのっているトトは、そんなザジに興奮して言い返し、(ポーランド人への)差別用語まで口にしてしまいます。
ザジに対しても、本人に直接にではありませんが、後の妻とのシーンで、娼婦とまで罵っています。これは後にトトの過去が明かされることへの伏線でもあります。
とにかく、この映画は、ほぼラストシーンまで、人と人との対立を見せ続けます。これは、「4分間のピアニスト」でもそうでしたので、この監督の特徴的なものでしょう。
で、話を戻しますと、ザジは、イメージしやすい(けれどそういう意味ではない)日本語で言えば性に奔放な女性として描かれており、台詞の中にもかなりそうした要素が散りばめられていましたし、行動としても(いつの間にやら)バルタザールと性的関係を持っています。
おそらくこの人物像は、出自にとらわれた苦悩への反動という映画的な意味合いもあるのでしょうが、もうひとつ、男女の性的関係が主従、あるいは抑圧的であることが多くの歴史的悲劇を生み、あるいはナチスの戦争犯罪のひとつの要因になっているのではないかと示唆しているようにもみえます。
シーンの前後ははっきりは記憶していませんが、ザジは、自ら精神的に壊れていると頻繁に話しますし、実際にかなり壊れた行動をしますし、やや唐突ではありますが自傷行為(リストカットだったのかな?)をし、本人がまるで挨拶するがごとく5度もしていると言ってのけたりします。
トトの人物像も同じことで、トトは後半に、ある時から自分はインポテンツになったとザジに告白しますが、それゆえに妻には他の男性とのセックスを認め、子どもも養子をむかえています。養子の子どもを黒人にしているのは、それがいいことかどうかは分かりませんが、映画的にわかりやすくしているのだと思います。
ラスト近くで、トトは祖父がナチスの戦犯であっただけではなく、自分自身も18歳(だったかな?)くらいまでナチスであった(この意味が正確には分かりませんが…)と明かされますが、おそらくトトのインポテンツは、ナチスの戦争犯罪の真実を知ったことによるアイデンティティ崩壊によるものと思われ、男性性の抑圧性を拒否したことを意味しているのではないかと想像します。
また、あまり気づかれないないかも知れませんが、あるシーンでは、トトに、男性が男性器のおさまりが悪い時によくやるような仕草でさっと性器に触れさせたりしています。
二人の周囲の人物の描き方もかなり性的な部分が強調されて描かれています。
同僚のバルタザールは上に書きましたように、その経緯は全く語られませんが、ザジと性的関係を持っており、ザジの元を訪ねた際、たまたまトトがいたためにザジに拒否されるも、自分で自慰するところを見ていてくれと言い、また後のシーンででは、ザジのいないベッドの上で自慰に及びます。
アウシュビッツ会議への参加を求めるために二人が説得に行く女優との会話も、内容は正確には記憶していませんが、その女優がトトをかなり性的内容で挑発していました。ちょっと違和感のあるシーンでしたので、相当意図的な台詞だと思います。
といった感じで、映画は、記号的な意味での「性」を全面に出しながら、感情的に対立する二人を、共に引きずっている過去に直面させることで乗り越えさせようと試みます。
二人の祖父、祖母は、机を並べて学んでいた幼なじみであったことが明かされ、二人を(祖父祖母の)故郷ラトビアのリガに向かわせます。
まあちょっと映画的にも安易かなとは思いますが、祖父祖母たちが生きたその場に立つことによって、二人の何かが変わり、その夜(だったかな?)二人は愛し合いセックスでも結ばれます。
その後、上にも書きましたが、実はトト自身が若い頃ナチスであった、おそらくネオナチの党員だったという意味かとは思いますが、刑務所にいる兄によって明かされ、ザジは去っていきます。
まあこのあたり、おそらく本筋ではないと考えたんだと思いますが、結構さらっと流されており、アウシュビッツ会議にしても、件の女優の講演も何とも中途半端に切られています。
こうした一見中途半端とも思える展開や編集は、「4分間のピアニスト」でもそうでしたので、まあこれが手法でしょうなどと思っていましたら、何とびっくり! 「4分間のピアニスト」とまではいきませんが、驚きのラストが待っていました。
場面が変わり、大都会の夜景です。
ん? なに? ニューヨーク?
そうです。5年後のニューヨーク、クリスマスです。トトとザジが再会します。
トトは、今は NYの(民族浄化を研究するだったのような)研究所で働いていると語り、一方、傍らに子どもを連れたザジは、子どもは3歳の男の子、 今はインド人の女性と暮らしていると語ります。
しかし、ザジが去った後、実はその子どもは5歳の女の子であり、二人が話していた物語(よく分からなかった)の中の名前であることが明かされます。
言葉で書きますと、ちゃんちゃんという感じで引き気味になりそうですが、映画を見ている分にはさほどそう感じることもなく、ああ、これが「昨日咲いた花」なのかなと思ったわけです。
ザジが結局トトの子供を生みながらも、今は女性をパートナーとしているということにも、この映画に流れているドイツ人にとっての「ナチス」と「性」へのクリス・クラウス監督の何らかの思いがあるのでしょう。
映画としての評価とは別に、こうした2世代前の自分たちのルーツに関しても、(今日本でみられるように)なかったことにしようとするのではなく、アプローチを変えつつ考えていこうという姿勢は見習うべきものだと思います。
ところで、トトを演っているラース・アイディンガーさん、「パーソナル・ショッパー」に出ていたとあり、誰だっけ? と考えても思い出せず、調べてみましたら殺されたララの恋人役でその犯人でした。
ザジの方は、「午後8時の訪問者」のアデル・エネルさんです。いい俳優さんですね。シャープさはないのですが、何があってもやり抜くタフさを感じさせます。