欲望なき縺れ、殺意なき殺人
昨年2017年のカンヌで監督賞を受賞しています。
ソフィア・コッポラ監督の映画は、「ロスト・イン・トランスレーション」「マリー・アントワネット」「SOMEWHERE」と見ていますが、どれも(私には)全然ダメで良さが全くわかりません(ペコリ)。
今読み返してみて思う、その理由をひとことで言えばリアリティがないということかなと思いますが、この映画は「監督賞」を受賞していますので、あるいは何かが変わったかなと期待したいところです。
ん? でも、監督賞って何が評価されたの?
監督:ソフィア・コッポラ
まだ見られていない方のために言っておきますと、予告編を見て「女たちの心は奪われ、惑わされ、かき乱される」のナレーションに心奪われ、惑わされて見にいきますとがっかりしますよ(笑)。「邪悪」さや「スリリング」さは皆無です。豪華キャストの人間模様も期待してはいけません。
ただ、この映画を見て、ソフィア・コッポラ監督が何を撮ろうとしているかちょっとわかったような気がします。ひとことで言いますと「静止画的様式美」じゃないですかね。
この映画で言えば、森の中の木立の間から差し込む光とかすかに流れる靄、たとえばそこにきのこを摘む少女を配してみる、そして、それを地面すれすれから仰角にとらえてみれば美しいではありませんか。
映画は、そうした森のシーンと女学園の室内のシーンが(印象では)ほぼ半々で構成されています。
室内での静止画的様式美が何かといいますと、7人の女性たちの佇まいでしょう。
典型的なのは、ディナーの後、何のためだったかははっきり記憶していませんが、ミス・マーサ(ニコール・キッドマン)がソファの真ん中に、エドウィナ(キルステン・ダンスト)とアリシア(エル・ファニング)がその両側に座っています。そこにエイミー、ジェーン、マリー、エミリーの4人がふわりとスカートを翻し3人の前の床に座るのです。
一瞬のことですが、その流れはまさに様式美であり、7人が座ったその瞬間は確かにある種の美しさを放っています。
ほぼ同じように、室内の俳優たちの動きは完全にコントロールされているように見えます。ただ、そこに自由さは感じられません。
過去の作品を見ても、この監督は物語を語ったり人物を深く描いたりすることが得意とは思えませんし、それを目指しているわけではないかも知れません。
この映画でも、マクバニー(コリン・ファレル)にしても、7人の女性たちにしても、きっと生まれるだろう様々な感情、つまり、恐れ、警戒心、好奇心、愛情、欲望、恐怖、憎悪、殺意などなど、その意識の流れは全く感じられません。
おそらく意図的に抑制しているのでしょう。
ですので、物語としてはつまらないです。たとえば、エドウィナ(キルステン・ダンスト)はこの女学園から出たいからなのか、男性への好奇心からなのか、愛情なのか、そうした意識の流れが描かれることなく、突然愛を語ったり、マクバニーの誘いを受けたり、自らマクバニーと体を重ねたりします。
アリシア(エル・ファニング)は、残念ながらまったく存在感がありません。全くもってマクバニーの行動もよく分からないのですが、ある夜、エドウィナの寝室に行っていいかと尋ね、受け入れられるも、なぜかエドウィナの寝室に行く前にアリシアのベッドであれやこれややっているのです(笑)。
おそらく何かを意図して、そこに至るシーンをカットしているのでしょうが、わけが分かりません。
結局、それをアリシアに見られ、マクバニーは階段から転げ落ち、意識を失い、ミス・マーサ(ニコール・キッドマン)に片足を切断されてしまいます。
これもかなり唐突で、放っておけば足が壊死するからという理由が口実なのはわかりますが、多分、本来ならミス・マーサの欲望(ちょっと違う)なりがそれまでに描かれて、そこからの嫉妬が主な理由という物語ではないかと思います。
とにかく、何をしようとしたのかは分かりませんが、そうした感情的なものを出さないように映画は作られており、そうだとすれば、なぜこの題材を選んだの?と疑問が湧いてきます。
で、映画のラストは、これまたなぜかは分かりませんが、、マクバニーを毒きのこで殺害し、女学園の外に放り出して映画は終わります。
ラストカットも、監督がやりたかったことなんでしょう。
女学園の外からのカットです。大きな鉄門、そしてその奥に壮大なギリシャ柱の真っ白な女学園の建物、階段に真っ白(く見える)いドレスを着た7人の女性たちが座っています。鉄門の外には白い布にくるまれたマクバニーが横たえられています。カメラはその鉄門越しに7人にズームインしていきます。
大きな鉄門も閉ざされた女学園の演出でしょうし、女性たちのドレスがほとんど白というのも、あまりにもストレートで違うかも知れませんが、清純さを意図しているんだと思います。
そうかな? 単純すぎるよね。