広瀬すずさんが高峰秀子さんや若尾文子さんになっていた…
広瀬すずさんが高峰秀子さんや若尾文子になっていた! それにカズオ・イシグロさんがミステリー作家みたいになっていた!
というのがこの映画の感想です。

イギリスパートはなくてもいいのでは…
1952年の長崎から始まります。
緒方悦子(広瀬すず)と二郎(松下洸平)の夫婦がいます。昭和の団地住まいです。1952年にあの団地で、さらにあの古さはないとは思いますがそれは置くとして、朝食時、連続幼女殺人事件が起きていることが語られたり、二郎の片手は自由が効かないことが示されます。
ただ、幼女殺人事件は物語にはあまり関係なく、後のシーンで子どもに危ないよと使われるだけです。二郎の障害は後にそれが戦争によるものであり、父親に対する隠れた憎しみの象徴のように使われます。
二郎は悦子に父親が訪ねてくることや数日泊まっていくことを告げて出勤していきます。団地は川沿いにあり、悦子の目線でその川沿いにあるバラック小屋が示されます。
バラック小屋の主は佐知子(二階堂ふみ)、娘の万里子(鈴木碧桜)と暮らしています。万里子は腕にやけどの痕がありますので 7、8歳の設定だと思います。アメリカ兵がやってきて佐知子が抱擁して迎えるシーンがあります。
という1952年の長崎パートがあって、1982年(だったと思う…)イギリスパートに移ります。
この入りがよくないですね。広瀬すずさんや二階堂ふみさんをメインにした映画にしたいことはわかりますが映画としては失敗でしょう。
実は映画冒頭に、暗い中、ソファーで寝ているイギリスの悦子(吉田羊)の短いワンシーンが入っており、その後長崎のパートに移るんです。1952年の長崎はその悦子の回想だよと見せたかったんでしょうが、中途半端で意味がないです。
素直にイギリスパートから入るか、回想の長崎を先に見せるのであればイギリスに移ったときにもっと工夫が必要です。冒頭のシーンに眠れなさそうな悦子のワンカットを入れたり、後に悦子が娘に悪い夢を見ると語るシーンを入れたりしてお茶を濁すような手法はまったく効果的ではないです。
結局これが後々まで引いて、かなりの分量あるイギリスパートが無駄なシーンに見えてしまいます。
実際、長崎パートとイギリスパートが噛み合っておらず、悦子が娘のニキ(カミラ・アイコ)に自らの過去を語っているようには見えず、ニキは残された写真や悦子の思い出の品々を探ることで自らその過去を知るようなつくりになってしまっています。
さらに言えば、吉田羊さんの悦子はいなくても(ゴメン…)映画として成り立っているということです。
それは言い過ぎだとしても、1952年の長崎パートと1982年のイギリスパートがうまく噛み合っていないことがこの映画の決定的な問題点です。
長崎パートの広瀬すずさんは見応え充分…
とは言っても、1952年の長崎パートは見ごたえがあります。
広瀬すずさんです。
もう俳優として自信に満ちています。言っちゃなんですが、夫役の松下洸平さんも、その父親役の三浦友和さんの存在感も圧倒しています。唯一対等なポジションに置かれている二階堂ふみさんでさえその存在感において凌駕しています。
広瀬すずさんは過去の出演作を見てみますと「海街diary」から見ていますが、意外にも俳優としての存在感を感じたのは「一度死んでみた」とか「キリエのうた」のコメディエンヌとして俳優力です。
この映画からはどんな役でもやるよという自信が感じられます。
長崎パートに見応えがあるのは、その広瀬すずさんの俳優力と二階堂ふみさんの二階堂ふみさんらしい存在感によるところからです。
広瀬すずさんは精神的に自立した悦子を見事に演じています。
徐々に明らかになることから、悦子は音楽の教師をしていたらしく、長崎への原爆投下により被爆しており、その混乱期に学校の校長であった緒方誠二(三浦友和)のもとに身を寄せ、その息子である二郎と結婚したということであり、今その子どもを妊娠しています。
誠二との会話により、原爆投下による惨状の中で教え子の子どもたちを救えなかったことを悔やんでおり心の重荷になっています。またお腹の中の子どもへの影響を心配しています。
一方の佐知子もまた被爆しており、娘の万里子は腕にケロイドが残っています。すでに書きましたように佐知子は、アメリカ兵と付き合うことでそれが性搾取される立場に置かれているとしても自らはアメリカに行けば世界が変わると自らに思い込ませなくてはいけない存在です。
その二人がお互いになにかを感じ合うようにして親しくなります。
ミステリー的ドンデンに頼った映画…
という広瀬すずさんと二階堂ふみさんの二人で映画は持っているとはいえ、思い返してみれば長崎パートもなにがあたったんだろうと思い出せないくらい散漫です。
結局、ラストで、実は佐知子は悦子であったというドンデンで映画を作ろうとしているからだと思います。
映画中程のイギリスパートで、ニキの姉である景子が自ら命を断っていることが明かされます。
これが実に軽い扱いなんです。吉田羊さん演じる悦子にはそのことを気に病んでいるふうにはまったく見えません。それを見せるシーンもないということではありますが、それに英語台詞を語ることに一生懸命になっているような演技になっていることも大きいとは思います。
これが長崎とイギリスふたつのパートがうまく結びつかないことの決定的な原因です。
で、いきなりどんでん返しのオチがやってきます。
書いているこのレビューも散漫になってきましたが、佐知子は悦子であり、佐知子の娘万里子は悦子の娘景子ということでオチをつけて映画をつくろうとしていることでせっかくの広瀬すずさん、二階堂ふみさん、吉田羊さんという俳優たちを映画全体として活かせていないということです。
その二人が被爆していること、二郎が戦争により障害を負っていること、また自分の出征を鼻高々に見送った父親を憎んでいると語ること、そしてその誠二の軍国主義教育を戦後になって批判する教え子と対決させること、そうしたシーンを入れることが間違っているとは思いませんがもう少しうまく映画全体の中に取り込んで深く描かないとちょっと入れておきましたくらいにしか見えないということになります。
原作がどうかは知りませんが、おそらくこんなミステリー話ではないと思いますので、やはり1982年の悦子視点で描くべき映画だと思います。広瀬すずさんの老けメイクでいけるんじゃないかと思います。
なにはともかく、広瀬すずさんの映画でした。