不可解な大人たちの行動と、そして少女の眼差しの意味するもの…
2014年の「雪の轍」が196分、2018年の「読まれなかった小説」が189分、そしてこの「二つの季節しかない村」が198分、3時間超えが当たり前のヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督です。それだけの時間を掛けないと描けないものがあるということなんでしょうが、それが何なのかを見つけ出すのが難しい監督ではあります。

このわかりにくさはなにゆえ?…
この映画もそうで、長さを感じることはないにしても映画のテーマやポイントがとてもわかりにくい映画です。
主人公の教師サメット(デニズ・ジェリオウル)は利己的で人を見下した態度を取るとても嫌なやつです。生徒に対しては怒りを隠そうともせず怒鳴ったりします。知的なところがあり論争好きなんですが、相手の質問にも真正面から答えずはぐらかして常に優位に立とうとします。
ひとことで言えば独善的ということなんですが、こうした人物をジェイラン監督がどう見せようとしてるかがよくわからないんです。肯定的ということはないとは思いますが、一概に否定的というようにもみえず、それがために非常に後味の悪い気持ちが残るのです。
映画としての隠しごとが多いことも映画をわかりにくくしています。映画に答えが必要というわけではありませんが、悪く言えば曖昧さに逃げているようにもみえます。
物語としては2つの大きな出来事で作られており、その一つが女子生徒セヴィムから不適切な接触があったと訴えられることです。ただ、何をどう見せたいのか曖昧なまま、なんとも奇妙で気持ちの悪い終え方をしています。
そしてもう一つは女性教師ヌライ(メルヴェ・ディズダル)をめぐる同僚教師ケナン(ムサブ・エキジ)との駆け引き(ちょっと言葉が違うけど…)と三角関係なんですが、あんなことをしたら関係も崩壊するだろうということをさせながら、なんと季節が変わっても3人で遺跡を訪ねたりするのです。
饒舌すぎる言葉の問題もあります。サメットと校長の論争、そしてサメットとヌライの論争、どちらもかなりの時間を使っており、わざわざ長いワンショットのシーンもあったりするわけです。獣医とのシーンでもどちらも饒舌です。ただ、これらのシーン、どれもあまり映画的ではないんです。獣医とのおしゃべりは何もない村での暇つぶしのようなものですので置いておくとしても、校長との論争は水掛け論ですし、ヌライとの論争なんて、サメットがまともに答えないこともあり、またその後の展開を考えれば、まるでセックスの前戯のようなシーンです。
ところで、あの難しい内容の台詞、果たして字幕は正しかったんでしょうか(ゴメン…)。そんなことにまで気がいってしまう映画です。
映画の舞台となっている東アナトリアの地政学的な意味合いをどう考えているのかもはっきりしません。ジェイラン監督の立ち位置がわからないということです。ヌライが片足を失った経緯もかなり曖昧です。ヌライの政治的(民族的も…)な所属がわかりません。字幕ではヌライを「左派」と表現していましたが多分正確な表現ではないでしょう。
過去にはこの地域でアルメニア人ジェノサイドがあったと言われていますし、現在でも隣国アルメニアとは地域紛争を抱えていますし、国内でも民族対立も宗教対立もあると思います。サメットがヌライに、君はケナンと同じ何とか派という宗派だとも言っていました。もちろんこれも字幕ですので実際に何を指しているのかはよくわかりません。
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映画の舞台エルズルム県からもう少し南に行きますとクルドの地域です。
という、かなり煩雑で、曖昧で、とりとめなく進む約200時間の映画です。
トルコ辺境の村の教師の憂鬱…
舞台はトルコ、東アルメニアのエルズルム県の辺境の村です。

映画は上のマップのカラヤジという村で撮影されたということです。雪に閉ざされたシーンから始まります。実際、県都のエルズルムでも
海抜約1800メートルの高地であり、年間を通じて冷涼である。顕著な大陸性気候で夏季は暖かく、日中は30度を超えることもある。冬季は非常に寒冷であり、しばしば-30度以下までさがり、-40度近い気温を観測することもあるほどの酷寒である。最高気温極値は35.6°C(2000年7月31日)、最低気温極値は-37.2°C(2002年12月28日)である。(ウィキペディア)
ということですので、季節が夏と冬しかないというのもあながち誇張ではなさそうです。余計なことですが、いずれ日本もそうなりそうです。
教師のサメット(デニズ・ジェリオウル)が冬の休暇から戻ってきます。村人たちからは休暇はどうだったと尋ねられ、この村に赴任して4年目ですのでそれなりに溶け込んでいるようです。住居は同僚教師のケナン(ムサブ・エキジ)と戸建ての家をシェアしています。ケナンは影が薄い印象です。
学校が始まります。職員室(と言っても小部屋で皆で食べたり飲んだりしている…)での同僚の教師たちとの談笑シーン、印象としては会話がなんだか刺々しく感じます。言語の印象かもしれませんし、噛み合わない字幕のせいかもしれません。
サメットは倉庫のようなところに自分の机を置いています。皆こんな感じなのか、サメットが自分で望んで一人だけそうしているのかはわかりません。
サメットは女子生徒セヴィムにお土産だと手鏡を渡し、セヴィムは嬉しそうにサメットの腰に手を回し二人で並んで教室に向かいます。教室でのサメットの振る舞いは今の日本の感覚から言いますとかなり乱暴な印象です。それにセヴィムへの依怙贔屓はあからさまで、生徒たちからも先生はいつもセヴィムを当てると言われています。しかし、サメットもセヴィムも気にする様子はありません。
という状況説明が一通りあり、映画からは一貫してサメットの、もうこんななにもない辺鄙な田舎はたくさんだと、体中からも、言葉の端々からもその憂鬱さが撒き散らされています。
事実をも捻じ曲げてしまう厚顔無恥さ…
そしてひとつ目の出来事が置きます。ある日、抜き打ちで生徒たちの持ち物検査があり、セヴィムが持っていた手鏡と手紙を没取されます。ときどきサメットの不安そうな(と言いますか、まずい!という感じ…)表情が挿入されます。手紙はラブレターらしく(誰あてかは書かれていないよう…)、のちにサメットの手に渡ります。
サメットが手紙を読んでいますとセヴィムがやってきます。セヴィムは手紙を返してほしいと言いますがサメットは切り刻んで捨てたと言います。セヴィムはサメットが読んでいるところを見たのか引き下がりません。セヴィムの強さがよく出ており、これがラストシーンに繋がります。
結局、二人の力関係もあり、セヴィムが引き下がることになりますが、後にセヴィムは報復に出ます。サメットとケナンから不適切な接触を受けたと告発します。
二人は地区の教育局から呼び出しを受け、そこで初めて告発のことを知ります。支部局長(のような人物…)は、かなり高圧的に生徒から告発があった、誰からどんな告発かは言えない、と繰り返すだけです。
処分が下されるわけでもないのに何のためのシーンだろうと思いますが、多分、高圧的な教育機関を見せる(国内的に…)ためと次の校長との論争シーンへの振りのシーンなんでしょう。
ということで、それなりに長い校長との水かけ論争があり、しかし、この件、特にどうこう進展するわけでもなく、なんともはっきりしないまま終盤までお預け状態になります。
これはもう一つの出来事への振りもあると思いますが、サミットは同僚教師から告発はセヴィムからのものであり、本当のターゲットはケナンではないかと聞かされます。かなり強引な振りですのでなぜケナン? と気にはなりますが、これも曖昧なままほっぽり出されています。
ただ一つだけはっきりしていることは、サメットは自分には何の落ち度もない、告発は虚偽だとの態度を取り続けますが、映画は明らかに、サメットの意図がどうであれ不適切な行為はあったわけですし、サメットがその事実を罪悪感を感じることもなく捻じ曲げていく人間であることを見せようとしています。
そして映画はもう一つの出来事へと焦点を移していきます。
大人の行為はいつも不可解…
どういう経緯かわかりません(説明されていたかもしれない…)が、映画のかなり早い段階でサメットがカフェでヌライと会うシーンがあります。初対面です。そして、後にサメットがケナンにその話をし、自分よりもケナンに合いそうだから今度紹介しようと話します。更にその後、3人で会うシーンが2度ほどあります。
ヌライがケナンに興味を示し始めます。それに対して映画は、サメットが面白くない気持ちを抱いていることを見せています。後日、サメットは町中で二人が一緒にいるところを見ます。サメットはケナンにそれとなく探りを入れますが、ケナンはしらばくれます。サメットが行動に出ます。町でヌライを待ち伏せし、偶然を装って話しかけ、ケナンと二人でヌライの家を訪問する約束を取り付けます。
その日、サメットは花束を持ち一人でヌライを訪ねます。一人であることの言い訳を言うサメット、やや困惑するヌライ、帰ろうかと言うサメット、大人ゆえにそうしてとも言えないヌライ、そしてディナーとなり、もちろんワインを飲みながらの大論争シーンとなります。
論争は哲学的とも言えますし、また空理空論にもみえます。ヌライがどういう立ち位置にいる(いた…)人物なのかはっきり語られませんのでどういうことかはわかりませんが、何らか理由で爆発事件に巻き込まれ片足を失っています。それがために現在は人生にも悲観的になっているよう(に私は感じた…)です。しかし、戦う人であったという自負からか、サメットの個人主義的でインテリぶった立ち回り方を許せないようです。論争は激しさを増しています。
サメットは今の日本で言えば冷笑系の人物みたいなものかもしれませんね。行動しないことを責められても、それはあなたの感想ですよねと返せばそれで論破と勝ち誇るみたいなものです。余計なことでした(ゴメン…)。
そんな論争が続き、そしてダイニングテーブルを挟んだ論争はソファへと場を移して空気が変わります。ヌライがあなたのことを知るためにといくつか質問を投げつけます。しかし、サメットがその問いに真正面から答えることはありません。はぐらかし続けています。
そしてヌライが、最後の質問、なぜ今日ケナンに黙って一人で来たの? とぶつけます。
サメットは何も答えなかったと思いますが、ここからのシーンは見ている者を混乱させます。いわゆる男と女の間があり、サメットがヌライの顔を優しく撫でます。しばらくしてヌライがおもむろに立ち上がり寝室に向かいます。
さらにしばらくあって、サメットが立ち上がり、あるドア(バスルームの設定?…)を開けて進みますとそこは、いわゆる屋台崩しのように、映画制作のバックヤードであり、機材が置かれ、スタッフが動き回っています。サメットは何事もないかのように突き進み、洗面所に入り、顔を洗い、そして再び映画セットに戻りますと、そこにはベッドに横たわったヌライがいて、義足をはずしてベッドに横たわっているのです。
私は単なる思いつきだと思いますが、サメットがそのままヌライの部屋に向かうベタさを避けようとしただけのことでしょう。
ということで、シーンとしてはキスシーンだけですが、二人が関係を持ったということになり、翌朝、映画はサメットの勝ち誇ったようなリラックスさを見せ、そしてヌライにこのことはケナンに言わないでと言わせるのです。
サメットはケナンに自慢気に話します。ケナンは意気消沈、絶望の体です。その後、ヌライがいくら電話をしてもケナンは出なくなります。業を煮やしたヌライは二人の住まいを訪ねます。
この三人のシーンもかなり奇妙なシーンで、ヌライの困惑、ケナンの絶望、そしてサメットの優越感だけが示されるだけです。何も起きないということです。
そして雪の中、ヌライを送る車の中の無表情な三人の顔を捉えながら、冬は終わり、その辺境の村の草木にも緑が戻り、しかし、その緑もすぐに黄色く色づくだろうとナレーションが語りかけ、その三人は世界遺産ネムルト・ダウ(ネムルトダー)の遺跡を訪ねるのです。
サメットはひとり小高い山に登り、遺跡のもとにいるヌライとケナンの二人を見下ろしています。

セヴィムの糾弾の眼差しは誰のもの…
まだ終わりではありません。季節が変わった学校です。
サメットには異動が決まったようで荷物を片付けています。セヴィムがやってきます。サメットはセヴィムになにか言うことはないかと相変わらずの高圧的な物言いで問い詰めようとします。
ごめんなさいと言え、俺の前にひれ伏せということかと思いますが、セヴィムは無言のまま、サメットに決別の眼差しを向けて去っていきます。

という、美しい映像と曖昧なドラマでなんとも掴みどころのない映画になっているのですが、結局のところ、この映画の主人公サメットは、ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督自身にもこれは自分かもしれないと自虐的に感じて(いるかもしれない…)いる、また、それはシナリオに加わっている妻エブル・ジェイランさんのジェイラン監督への評価の現れかもしれない(完全に想像です…)という、さらに言えば、映画を見るすべての人に、どう、この人物? と挑戦的に投げつけている映画ということじゃないかと思います。
ところで、邦題は「二つの季節しかない村」としており、確かにラストシーンの雪のない季節のシーンにそれらしきナレーションが入っていましたが、原題は「乾いた草」という意味の「Kuru Otlar Ustune(About Dry Grasses)」ですので、邦題が言うところの2つの季節しかない村があるよということではなく、まさしくそこで生きている、あるいは生きていくしかない、乾いた、あるいは乾いていくしかない人間を見ている映画なんだろうと思います。
ときどきその地の人々を撮ったスチル写真が挿入されていました。