石井裕也監督、覚醒す!と思いきや…
石井裕也監督、覚醒す!
これまでの石井監督の印象は、映画としてうまくまとめる能力は高いけれども、今の時代や社会にあまり直接的なコミットメントをしない印象でしたが、この映画はちょっと違っていました。
たまたまの1本なのか、なにかが変わっていく初めの1本なのか?
世の中は理不尽なことばかり
世の中は理不尽なことばかりとは、まさに今の時代のことです。
この映画の主人公田中良子(尾野真千子)は、高齢者のブレーキとアクセルの踏み間違いによる交通事故で夫を失い、加害者の謝罪がないことを許せず賠償金を受け取ることを拒否し、さらにコロナ禍によって経営していたカフェを閉めざるを得なくなり、それ以来、昼は花屋のアルバイト、夜は風俗のダブルワークで中学生の息子を育て、なおかつ、夫が生前他の女性との間につくった子どもの養育費6万円を払い続け、義理の父親の老人ホーム費用まで負担しています。
その後も、やっと慣れてきた花屋のアルバイトも経営者の縁故採用のとばっちりで突然解雇されたり、夫の命日恒例の宴会では夫のバンド仲間から執拗に迫られたり、たまたま再会した高校時代の同級生からは妻子がいるにもかかわらず離婚しているとだまされて関係をもつも、良子が結婚を考え始めれば態度を豹変させるという理不尽さにさらされます。
息子の純平(和田庵)は母親の仕事を理由に虐めにあい、父親の事故でさえからかいのネタにされてしまいます。
良子の同僚ケイ(片山友希)は子どもの頃からずっと父親から性的暴行を受けていたと語り、今も男のDVにあっています。さらにその男から中絶を強要され、その手術の際にかなり進行した子宮頸がん(だったか?)が見つかります。
3人の身に世の理不尽のすべてが降り掛かったかのような映画です。
でも、ルールだけは守ってね
でも、良子は怒りません。
なぜ? と尋ねる純平に、良子は「まあ、がんばりましょ」と答えます。そして、さらに「ルールだけは守ってね」と付け加えます。
この「まあ、がんばりましょ」は自分に向けられている言葉でもありますが、「ルール」の方はかなり唐突です。純平がルールを守っていないわけでもないのに唐突に発せられます。
なぜ良子はルールなど持ち出すのか?
良子という人物はこの言葉だけではなくいろいろな行動においてもかなり非論理的な人物です。それだけにより現実的で生きた人物になっているのですが、おそらく、ルールを守っていれば少なくとも身だけは守られる、理不尽な目にあうことはないはずだ、神様はきっと見ているに違いないと思っている人物なんでしょう。
でも社会はそんなにやさしくないことを映画は示しています。社会はルールで守られているという暗黙の了解、それさえ破られるのが現実ということです。
法の下の平等も社会的地位によってあっけなく覆され、コロナ禍での疲弊はより弱者に厳しく、男性による女性への性的搾取は固定化してしまい、弱者は弱者同士身を寄せ合うしか手はないのでしょうか! とレイが良子を焚き付けます。
これが映画でなければ、むしろ怒らなくてはいけないのはレイの方なんですが、酒の勢いもあってか、良子の中のなにかが壊れた(目覚めた)ようです。酔いつぶれてはしまいますが、もう「まあ、がんばりましょ」では塞げないほどその裂け目は大きくなっています。
良子は怒り方を忘れていたのかも知れません。あるいは怒ることはダサいという世の風潮に流されていたのかも知れません。後はきっかけを待つだけです。
純平へのいじめの加害者たちの放火によって住まいである公営住宅が火事になります。火事の原因など調べられることもなく、良子たちは集団への迷惑行為を盾に公営住宅を追い出されます。
良子は包丁を隠し持ち飛び出します。
刺すべき相手は本当に熊木くんなのか?
「まあ、がんばりましょ」の蓋が取れてしまいました。
しかし、良子の怒りの矛先は世の理不尽さへではなく、きわめて個人的な怒りの対象、自分を弄んだ高校時代の同級生熊木くんへ向かいます。
夫の死に謝罪もしない加害者家族や弁護士でもなく、自分を解雇した花屋の店長でもなく、人の弱みに付け込む夫のバンド仲間でもなく、そして社会の同調圧力という見えざる暴力でもなく、自分を騙し弄んだ(と良子が思う)同級生の熊木くんです。
え? とは思いますが、映画的判断でしょうし、石井監督の映画的センスでしょう。仮に加害者家族や店長を刺そうとしたと進めれば映画の次元は一気に変化します。もちろん誰であれ人を刺そうとすれば良子は犯罪者ですが、実際にこの後の展開がそうなっているように熊木くんであれば痴話喧嘩で収められるということでしょう。
映画は母子物語へ
映画は一気にまとめに入ります。
本来であれば、良子の熊木くんへの行為は傷害事件になるところですが、自分はヤクザだと名乗る風俗店の店長と弁護士、それも夫を失った交通事故の加害者の弁護士の力でもみ消されます。
良子も(夫を殺した)加害者や弁護士や花屋の店長やしょうもない男たちの側へ行ってしまったようです。
この結末を非難するつもりで書いているわけではありませんが、この結末がきわめて現実に近いのではないかと思う時、それを意図した映画ではないにしても、この先に見えるのは寒々とした光景でしかありません。
映画は、絶望したケイには自殺をさせ、良子には絶望の神を演じさせ、唯一信じあえるのは母子しかいないとの結論を導き出します。
良子と純平母子が見る「茜色に焼かれる」空に希望はあるのでしょうか?
石井裕也監督、覚醒いまだ半ばか
世の中の理不尽さへの怒りが母子の愛情へと収斂していくことがいいのかどうなのか、正直私にはよくわかりませんが、少なくともなにかを変える力になることはないでしょう。
かろうじてあるとすれば、なんのフィルターもかけることなく世の中を見ている純平がこのまま育ち、次の時代を担うべき人物に育つことを待つことくらいかと思います。
日本の映画界にケン・ローチ登場を待つ。