太陽と桃の歌

みな非職業俳優らしい、その存在感が素晴らしい…

2017年の「悲しみに、こんにちは」がベルリン国際映画祭ジェネレーション Kplus でグランプリを受賞し、その年のアカデミー賞外国語映画賞のスペイン代表にも選ばれたカルラ・シモン監督、この「太陽と桃の歌」では2022年のベルリン国際映画祭金熊賞を受賞しています。

太陽と桃の歌 / 監督:カルラ・シモン

出演者はみな非職業俳優らしい…

ジェネレーション Kplus というのは児童・青少年向け映画部門 (Kinderfilmfest)ですので子ども向けと思ってしまいますが、「悲しみに、こんにちは」という映画は決して子ども向けではありません。今年の2月に公開された「コット、はじまりの夏」も同じ Kplus のグランプリですので、この映画をご覧になった方はどういう傾向の部門かおわかりいただけると思います。

言い方を変えますと、子どもたちの存在や子ども目線といったものが重要視される部門だということです。その点ではこの「太陽と桃の歌」でも変わりなく、映画冒頭は子どもたちが廃車となった車を秘密基地のようにして遊ぶシーンから始まります。子どもたちの撮り方は本当にうまいです。演技感がまったくありません。

そしてさらに、今回わかったことは撮り方がうまいのは子どもだけではありません。この映画、大人たちの存在感もすごいのです。

なのに、この映画の出演者はみな職業俳優ではないらしいです。IMDb によれば、キメットの妹役のひとり(未確認だがグロリアかな…)をのぞいて皆その村の人々ということです。その大人たちにもまったく演技感がありません。

ホントかなあと思うくらいみな自然体の演技です。

スペイン、カタルーニャのアルカラスという村で桃農園を営む家族の話です。バルセロナから直線距離で100kmくらいの山間の農村地帯です。村全体が桃栽培で成り立っているような村でした。

そのソレ家一同です。もちろん実際の家族ではありません。

中央のおじいちゃんロヘリオから左にキメットとドロレス夫婦、長女マリオナ、キメットの妹の娘、キメットの妹の双子、おじいちゃんから右におじいちゃんの姉妹の大おばあちゃん、妹夫婦、キメットの息子ロジェーと娘イリス、そして丸の中がキメットの妹グロリアです。

ソレ一家はおじいちゃんの代から桃農園を営んでいます。そこに、今、地主からこの夏の収穫が終わったら土地を明け渡すように通告されます。ソーラーパネルを敷き詰めて太陽光発電をするというのです。

ソレ家の主(家父長制家族ですね…)キメットがおじいちゃんに土地の契約を尋ねるも、おじいちゃんは昔はそんな契約書なんてなかった、口約束で買った(借りた?…)と言うばかりです。

キメットに手立てはありません。この夏の収穫を終えることしかできることはありません。

スペイン版ネオレアリズモ、今だ未完成…

という、ベースとしては時代の変化によって崩壊する農業というテーマはあるようですが、映画が描いているのは一貫してひと夏の家族模様です。土地を明け渡さなければならないことから家族の間が刺々しくなっていきます。それでもこれまで何十年と続いてきた桃の収穫を家族全員でやるしかありません。ぶつかり合いと一体感、相反する感情が渦巻く家族のひと夏です。

ところが、これがまったく面白くありません(ゴメン…)。そのぶつかり合いと一体感が雑然と放り出されているように感じられるのです。

第二次世界大戦直後のイタリアでネオレアリズモという文化潮流があり、映画で言えば、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の「自転車泥棒」やルキノ・ヴィスコンティ監督の「揺れる大地」などでは非職業俳優を使い、自然主義的なドキュメンタリー手法が重要視されていた時代がありました。描かれるテーマも現実の矛盾をあからさまにしたり告発したりするものが多かったようです。

非職業俳優の起用や社会性のあるテーマはこの「太陽と桃の歌」にも共通しています。そしてこれはおそらくですが、ネオレアリズモと同じように各シーンの演出が即興的に行われているのではないかと思われます。

でも何かが違います。

この映画の特徴は、全体としては社会(構造)の変化と翻弄される家族という大きなテーマがあるにもかかわらず、各シーンがそのテーマに関連するひとつの要素として構成されていないことです。

ラストシーンは家族一同が小高い丘の上からショベルカーによってなぎ倒されていく桃農園の木々をじっと見つめる姿です。このカットのままなぎ倒される大きな音が響いています。そのものの画を見せずに音だけで想像させる演出です。

太陽と桃の歌公式サイトより

というラストシーンから考えますと、映画の冒頭、子どもたちが自分たちの秘密基地である廃車がなくなったと必死に大人たちに告げるシーンは長く続いてきたものが突如失われることの暗示だったということになります。

というオープニングとエンディングはつながっているのに、それにはさまれる本編の各シーンがかなり散漫なんです。

当たり散らすキメット、思うところを秘めながら耐える(かな?…)ドロレス、何を考えているかわからないドロレスとロジェー、まあ10代の頃なんてなに考えているのかわからないのが当たり前ですが、とにかく、皆が皆、なにか事を起こすのですがそれがなんであるのか、それがどうなったのかが示されずに尻切れトンボで終わるシーンの連続なんです。

もちろん現実なんてこんなものです。なにか危機が迫っていても、日々の食事はしなくてはいけませんし、ましてや、もうどうすることも出来ないとなればジタバタせずその時を待つしかないということになります。

この映画はそういう映画です。なにか一本筋が通っていない感じがするのです。だから、すごい映画であっても面白くはないのです。

善悪では判断できない時代がやってきている…

社会性のあるテーマという点を考えてみますと、桃農園を太陽光発電施設に変えてしまうことは悪いことなのか? という疑問が湧いていきます。

もちろんケースバイケースですので一概には言えませんが、少なくとも現時点では太陽光発電は環境への負荷が低いと言われています。電気がなくては生活できない社会を築いてしまった以上、より環境負荷の低い発電方法を選択することは悪いこととは言えません。

一方の桃の栽培については生産者たちがもっと高く買い取れと抗議するシーンがあります。トラクターでデモ行進をし、桃を路上に放り出して潰したり、その桃をなにかの施設に投げつけたりするシーンがあります。おそらく桃栽培がグローバル競争にさらされていることを示しているんだろうと思います。

この映画が桃農園に変わるものとして火力発電所でもなく原発でもなく太陽光発電を持ってきていることには大きな意味があり、こうした社会(構造)の変化には単純になにが良くてなにが悪いか判断できない問題があるということです。

社会の矛盾を描くことにこれが悪いからと言えなくなっています。

この映画にはソレ家一家が桃農園を失う理由に権力の横暴といった善悪二元論を持ち出せなくなった時代が描かれていると言えるのかもしれません。

怒ることも出来ずに呆然と見守るソレ家の人々の姿からはそんな思いが感じられます。