ラストシーン、コットがダディ、ダディと二度つぶやく父娘の物語…
一昨年2022年のベルリン国際映画祭ジェネレーション部門(Kplus)でグランプリを受賞したアイルランド映画です。Kplus は主人公が 4歳以上の映画が対象で、11人の子どもたちが審査するという部門です。主人公が14歳以上になりますと 14plus という部門になり、同じ年に川和田恵真監督の「マイスモールランド」が出品されて特別賞を受賞しています。
子ども目線の映画か…
原作があります。2010年に出版されたクレア・キーガンさんというアイルランドの作家の短編小説『Foster』です。Foster は里子として育てる、といった意味です。
1981年のアイルランド、4人兄弟姉妹の3番目のコット(キャサリン・クリンチ)9歳が母親の従姉妹夫婦にひと夏の間預けられるという話です。
ちょっと不思議な感覚の映画です。一般的には、なにかコトが起きますと原因があり結果があると考えるわけですが、この映画ではコトは描かれるものの原因や結果をはっきりとは描いていません。ほぼ全シーン、その手法をとっています。
たとえば、そもそもの物語の発端であるコットが叔母(正確には従姉妹叔母…)の家に預けられることにしても、なぜ4人のうちコットなのかはよくわかりません。コットは両親と姉ふたり弟ひとりの家族です。母親が臨月になろうかというお腹をしていますので、面倒を見きれないということなのかなあ、などと考えながら見ていくことになります。
で、しばらくはそうした違和感を感じながら見ていたんですが、ふと、これはコット目線を意識しているんじゃないだろうかと思い始め、そう考えればとても納得のいく映画です。
コットにしてみれば、なぜ自分だけ家から出されるんだろう、どこへ行くんだろう、などと不安感いっぱいなんだと思います。その不安感が見るこちら側にも伝わってきます。
子どもの頃にまわりで起きることってそんな見え方じゃないでしょうか。こうしなさい、ああしなさいと言われて、とにかくやらざるを得ないみたいな感じです。
物静かな少女、コット…
原題の「An Cailin Ciuin」は「物静かな少女」という意味のゲール語とのことです。ときどき英語が入っていましたが、ほとんどゲール語です。ただ、ゲール語といってもいろいろ別れているようで、IMDb には Irish Gaelic と Gaelic が併記されているように、この映画のゲール語は主に Irish Gaelic アイルランド語と言われているものではないかと思います。
その原題のとおりコットはほとんど話をしません。と言うよりも、コットだけではなく他の出演者もかなり台詞が少ないです。ですので、映画全体になにか起きるのではないかという不穏な空気が漂っています。全体にピーンと糸が張っているような映画です。
コットの家は酪農家なのに父親は競馬の賭けにその牛を賭けてしまうような放蕩者です。傍若無人、横柄、そういった人物ですので、とにかく家の中は殺伐としています。父親が叔母の家まで3時間かけて車で送り届けるわけですが、叔母の家でも横柄で挨拶もしませんし、ありがとうもありません。
叔母アイリン(キャリー・クロウリー)は優しい人です。叔父ショーン(アンドリュー・ベネット)も実は優しい人ですが、とっつきにくい人物になっています。1981年頃であれば日本でも同じような感じかと思いますが、家父長制的な父親像にみえます。ただ、ちゃぶ台をひっくり返すような人物というよりも寡黙な人物ということのようです。夫婦の間も、1ヶ所を除いて親密さを感じさせるようなシーンはありません。そのワンシーンを強調したかったのでしょう。
こうしたこともコットが見ている叔母夫婦ということかと思います。
アイリンは一貫して優しい描き方がされていますので、変化はコットとショーンの関係で描かれます。ショーンはショーンでコットのことを気にかけているのですが優しくできません。ある時、アイリンが留守のときにコットがいなくなり、ショーンは必死に探します。結局、コットはショーンの手伝いをしようと牛舎にいたわけですが、ショーンはコットを見つけたときについ強い口調を使ってしまいます。
そんなギクシャクした関係も次第にわかりあえるようになっていきます。その契機はコットが走ることです。ショーンはコットに足が長いなあと言い、郵便受けまでどれだけかかるか走ってみなさいといいます。広大な敷地ですので住まいから郵便受けのある門までそれなりに距離があります。
映画としては2度ほど描かれるだけですが、ショーンが今日は何秒早かったなどと言っていましたので毎日のようにやっていたのでしょう。走るという行為は人を変えます(多分…)。
このコットの走る姿、引用した画像もそのひとつですが、これがこの映画のテーマを象徴しており、ラストシーンの、否応なく涙が流れてしまう感動シーンにもなっています。
叔母夫婦の秘密…
叔母夫婦の間にはどことなくよそよそしさのようなものが感じられます。そのわけが映画中程で明かされます。映画的には一見夫婦の秘密のようにもみえますが、これもその時コットが知ったという描き方の結果だと思います。
コットの父親はコットの着替えなどを車に乗せたまま帰ってしまいます。アイリンはこれを着なさいと子ども用のシャツとジーンズを出してきます。
ああ、子どもがいたんだなとは思いましたが、性別的にはなにも感じずに見ていましたら、後にショーンが町へ買い物に行くと言い、その服装でミサに連れて行くわけにはいかないだろうとアイリンに言います。アイリンはコットに黄色のドレスを買うわけですが、ショーンの言いたかったのは、亡くなった息子のことを話題にされたくなかったんだろうと思います。
亡くなってからさほど時も経っていないのでしょう。これがわかりますと夫婦間のよそよそしさも腑に落ちます。コットが最初に眠るシーンでしたか、汽車の図柄の壁紙のカットがありましたので、その息子の部屋ということです。わざわざアイリンがショーンにコットを寝かしつけてくると言うシーンが2度ほどあったと思います。知って見ていればまた違った見え方がしたように思います。
コットはそのことを近所の噂話好きのおばさんから聞きます。そのおばさんは、ふたりの息子は犬を追いかけて肥溜めに落ちて死んだと話します。コットがそのことを叔母夫婦にそのまま話しますと、ショーンがコットを海辺に連れ出し、「沈黙」について語ります。沈黙も悪くない、沈黙を逸して多くを失うことがあるといった話だったと思います。
ただ、アイリンの方は、別のシーンですが、家に秘密があることは恥ずべきことよと言っています。もう一度見てみないとわかりませんが、息子の死について夫婦間で考え方の違いがあるのかも知れません。
いずれにしてもこうした断片的にも見えてしまう描き方もすべてコット視点で描くことを貫いた結果ではないかと思います。
コット、ダディ ダディと2度言う…
コットには別れのときも唐突にやってきます。弟が生まれたと知らせが入り、父親がコットを家まで送ってきてほしいと言ってきます。
ショーンとアイリンが車でコットを送ります。コットの家の鉄の門の前で車が止まり、ショーンが降りて門を開け、車に戻ってそのまま入っていきます。ショーンの家もコットが走って郵便を取りに行く距離がありましたが、コットの家も同じようなもので、さすがアイルランド、どんなに貧しくても土地の広さはすごいなあということもありますが、それよりもなぜこのカットが必要なんだろうと思っていたところ、これはラストシーンのためでした。
コットの家はショーンとアイリンの家とは明らかに違う風情です。当然そのように演出されているわけですが、かなり暗くしてありますし殺伐感が漂っています。父親が帰ってきます。飲んでいるようです。相変わらず不遜な物言いです。ショーンとアイリンはそろそろお暇しようと言い帰っていきます。
アイリンとはハグをしたかどうかも記憶がないくらいあっさりした別れです。車が出ていきます。コットと父親が見送っています。コットが車を追っかけて走り出します。
え? 追いつけないだろう、なんて思いましたら、しっかり考えられていました。
ショーンが車から降りて、来たときに開けていた門を閉めています。コットが走っていきます。コットを正面から捉えたカットの遠くに父親の姿が見えます。コットを後ろから捉えたカットでショーンが気づきます。コットがショーンに飛びつきます。多分ぐるっと180度回ったんだと思いますが、コットの視覚に父親が入ります。コットの口から「ダディ…」と言葉がもれます。
そして、コットのアップでショーンの肩にしがみつくようにして「ダディ」とつぶやきます。
コットと父親という映画でした。
コットの母親はあまり大きく扱われていません。父親のダメっぷりが強調されています。アイリンは映画の中では変化しません。ショーンとコットの関係が変化していく映画です。
コットがショーンに実父とは違った父親像をみるという映画、という意味でコットと父親の映画ということです。